ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

カント『人倫の形而上学・第二部・徳論』「倫理学的原理論・第一部・自分自身に対する義務について」:序論

岩波全集版『人倫の形而上学』が絶版になって久しく、このカントの倫理学体系上の主著がなかなか手にはいらないのは悲しいことです。
『人倫の形而上学』の第二部は「徳論」で、その「倫理学的原理論」の第一部は「自分自身に対する義務」、第二部は「他人に対する徳の義務」として構成されています。
論文を書くなかで「自分自身に対する義務一般について」の「序論」を見る機会があったのですが、この箇所の岩波版翻訳(池尾恭一訳)が誤っているとまでは言わないけれども非常にミスリーディングだということに気づき、下に訳しました。§1-3、アカデミー版全集6巻417-8頁の範囲です。
自分自身に対する義務はPflicht gegen sich selbstなのですが、このgegenがどのようなことを意味しているのか、池尾訳ではつかみにくいところがあります。問題は、池尾訳では、S verbindet P gegen Qという義務の構造において、verbindet Pとgegen Qの区別が訳に反映されていない点です。つまり、SはPを拘束するが、それはPがQに対して何かをする(あるいはしない)ように拘束する、という意味が区別されていないように思います。義務の拘束性の源泉はSです。カントにおいて、Sは常に私(あるいは私を含めたすべての人)の理性です。自分自身に対する義務とは、それゆえ「私が理性を介して自分を拘束する」ということを意味するのではありません。これは義務一般に共通する原理です。むしろ「私が理性を介して、私自身にむけて何かをするよう(しないよう)、私自身を拘束する」ということとして解されなければなりません。カントにおいて「私(S)が理性を介して自分(P)を拘束する」というのが義務一般の原理ですが、以下の箇所ではさらに義務が向けられる対象Qが自分である場合について述べられています。S、P、Qは概念的に区別されなければなりません。第一節では、QがPを義務づけるという場合、PとQが同一の主体であれば、それは矛盾なのではないかという一般的な理解が示され、第二節・第三節でその矛盾が解消されます。特に、池尾訳が問題なのは、第二節・第三節です。

§1. 自分自身に対する義務の概念は(一見)矛盾を含んでいる

義務づける私[verpflichtendes Ich]が義務づけられる私[verpflichtetes Ich]と同一の意味に解されるなら、自分自身に対する義務とは自己矛盾する概念である。というのも義務の概念には受動的な強要という概念が含まれているからだ(私は拘束されている[ich werde verbunden])。しかし、私自身に対する義務に関して、私は自分を拘束するもの[verbindend]として、それゆえ能動的強要において、表象する(まさに同じ主体[Subject]である私は拘束する者[der Verbindende]である)。すると、自分自身に対する義務を言明する命題(私は自分自身を拘束すべきだ[ich soll mich selbst verbinden])は、拘束されていなければならないという拘束性[eine Verbindlichkeit verbunden zu sein](受動的責務[passive Obligation]ではあるが、同じ関係性の意味において能動的責務でもあることになるだろう)を含む、それゆえ矛盾を含むことになるだろう。この矛盾は次のようにしても説明できる。拘束する者(auctor obligationis)はいつでも拘束される者(subiectum obligationis)を拘束性(terminus obligationis)から解放することができる。それゆえ、(両者が同一の主体[Subject]であるなら)拘束する者は自らに課した義務[Pflicht, die er sich auferlegt]にまったく拘束されていないことになってしまう。これは矛盾である。

§2. それでも人間の自分自身に対する義務は存在する
池尾訳

その理由は、もしもこのような義務が存在しないとしたならば、およそ義務はどこにもなく、外的義務さえも存在しないことになろうからである。なぜなら、私が他人に対して義務を課せられていると認めることができるのは、私が同時に私自身に義務を課するかぎりにおいてだけだからである。というのは、それによって私に義務をかすると私が思うその法則は、あらゆる場合に私自身の実践理性から発するのであり、その実践理性によって私は強要されるが、同時に私は自分自身に関しては強要するものでもあるからである。

拙訳ではこうなります。

というのも、こうした義務が存在しないとすれば、そもそもいかなる義務もありえないし、外的な義務もありえなくなってしまうだろうからである。というのは、私が他者に対して自分が拘束されていると認識するのは、私が同時に自分自身を拘束するかぎりでしかないからである。なぜなら、法則によって私は自分が拘束されているのだとみなすのだが、その法則はいかなる場合も私自身の実践理性から生じており、実践理性を通して私は強要されており、同時に私は自分自身の側から見れば強要するものであるからである。

強調した部分の原語は、こうです。

Ich kann mich gegen Andere nicht für verbunden erkennen, als nur so fern ich zugleich mich selbst verbinde.

外的義務とは他者に対する義務(Pflicht gegen Andere)のことですが、この義務の拘束性の源泉は私の理性です。ここで言われているのは、私は理性を介して私を、他者に対して(gegen Andere)、つまり他者に向けて、何かをなすよう(あるいはなさないよう)拘束している、ということです。池尾訳では<Qに向けて・対して何かをなす(なさない)よう拘束される>ということと、<PはSによって拘束される>ということが、どちらも「義務を課せられている」という訳になってしまっています。


§3. この見かけ上のアンチノミーの解決

人間は、自分自身に対する義務の意識において、自らを二重の性質における義務の主体としてみなす。第一に、感性存在[Sinnenwesen]、すなわち(動物の種の一つに属している)人間としてである。しかし第二にまた、理性存在[Vernunftwesen](単に理性的存在者ではないのは、理性はその理論的能力について言えば身体を持つ生きた存在者の性質でもありうるからである)としてである。理性存在にはいかなる感官も到達できず、それはただ道徳実践的な関係性においてのみ認識されうるものである。道徳実践的な関係性において、理性が内的に立法する意志に与える影響を通じて自由という不可解な性質が明らかになる。
 さて、理性的な自然存在(homo phaenomenon)としての人間は、原因としての自らの理性を通じて、感性界における諸行為へと規定されうるが、ここではまだ拘束性の概念は考察されない。しかし、その人格性にしたがって見られたまったく同じ人間、つまり内的な自由を賦与された存在(homo noumenon)として思考された人間は、義務づけること[Verpflichtung]が可能な存在であり、詳しく言えば自分自身(人格における人間性)に対して[自分を]義務づけることができる存在だとみなされる。それゆえ、(二重の意味で見られた)人間は、自己矛盾に陥ることなく(なぜなら人間の概念は同じ意味で考えられていないのだから)、自らに対する義務を承認することができる。

強調した部分は、池尾訳ではこうです。

しかし、まさに同一の人間が、その人格性からすれば、すなわち内的自由を賦与された存在者(homo noumenon)として考えられると、義務づける能力を有した存在者であり、しかも自己自身(彼の人格における人間性)に対して義務を課することができる。

原文はこうです。

Eben derselbe aber seiner Persönlichkeit nach, d. i. als mit innerer Freiheit begabtes Wesen (homo noumenon) gedacht, ist ein der Verpflichtung fähiges Wesen und zwar gegen sich selbst (die Menschheit in seiner Person) betrachtet.

und zwar以下の部分、省略を補うなら、und zwar ein der Verpflichtung des Ichs gegen sich selbst fähiges Wese betrachtet、あるいは und zwar ein fähiges Wesen, sich gegen sich zu verpflichten, betrachtetとなるでしょう。そうでないと、いろんなつじつまが合わなくなります。 つまり、第三節で区別されているのは拘束性の源泉となるSとそれが拘束するPではなくて、PとPがそれに向けて何かをしたりしなかったりしなければならないところのQ、つまり義務づけられるPと義務づけるQです。

おそらく日本語では「対する」という言葉が曖昧なので、verbindet Pとgegen Qという二つの契機を区別するために、後者は「対する」ではなくて「向ける」というふうに訳した方がいいかもしれません。「自分自身に向けての義務」、「他者に向けての義務」としても、おかしくないですものね。

メーザー「フランスの新しい憲法の基礎としての人間の権利について」

Justus Möser, Ueber das Recht der Menschheit, als den Grund der neuen Französischen Konstitution, in Berlinische Monatsschrift 15, 1790, 499-505.

メーザー先生は歴史的な根拠に基づく議論をする方なので、いかんせん単語が独特で難しいので、かなり不安な訳(やく)になっていますが…。

***

さて、親愛なるRさん、人間の権利Recht der Menschheitがあろうがなかろうが、ヨーロッパに人間の権利にもとづいて設立された国家があろうとはこれまで知りませんでした。フランス人が、彼らの人間の権利の理論に則って、実りあるものや持続しうるものを実現するとすれば、彼らは世界で最初の国民Volkとなるでしょう。どんなところでも、どんな社会の結びつきにおいても、商業のためか共通の防衛のためか、人間のほかに、その目的に適った株式Aktie oder Wahre*1が根底にあり、それらは同胞Genosseになるためには人が占有しなければならないものです。ごく小さな村でさえ、大抵の場合、完全株主か半株主、余分の一株主であったのであり、その株式に応じて各人は共同の牧地や森林地を享受し、自分のものがみんなの改良のために役立てられるのです。もし株を持たない人がUngewahrterがそこに入ってきて「私は人間だ、だから一頭の家畜を共同の牧地に連れて行かせろ」と言ったとしましょう。責任者は彼に答えるでしょう。「君は馬鹿か。われわれの村では、われわれが心の底から与えようと思う以上のものしか人間は受け取らないのだ」。どんな町でも事態は同じです。何らかのヴァーレを持つ市民や所有者だけがそこで名誉を受ける資格があるのです。単なる人間bloßer Menschにはそこでパンを物乞いする権利さえ認められません。せいぜい彼らには契約にもとづいてそこに定住することが許されるだけです。株式を持つことなく神の国へ行くことや、貧しい罪人という欄で人間同士を精算することなどは、神学者に任せておくのです。
こういうふうに小さな組合Genossenschaftが形成されるのと同様に、国家全体も形成されます。ヨーロッパ人は耕作者Landbauerとして土地株式Landwahreあるいは各国家に割り当てられた農地(マンズスmansusと呼ばれます)の所有Eitenthumを自分たちの結合の基礎に置いています。こうしたマンズスの真の所有者だけが、国民(Nation)の構成員であり、同胞と得失を共有していたのでした。土地の防衛Naturalverteidigung[?]において敗れた他のすべての人間は、当時はこうした敗北を金銭によって賠償することはできなかったものですから、奴隷になるか、契約にもとづいて居住する人々となり、法律や国家の決定に投票する権利を与えられなかったのです。
長い間、これらの株式を持たない人間は、互いに結びつき大きな国家のなかに特殊な小さな国家を設立することを認められてきませんでした。こうした株式を持たない人間unverbürgter Menschの群れが一箇所に集まり、塀や塹壕を築き、つまり一つになって、株式を持つ同胞たちgewahrte Genossenに意志を見せつけるとすれば、危険だと思われたのです。あるいは、彼らが神や聖者の庇護のもとに自分たちの団体Korpsを形成し、力を合わせて自衛するということは危険だとされたのです。しかし、時間が立ったり、窮乏や必要に迫られ、機会を見計らって、とりわけKönigsschuss[?]のために、最終的にこうした小さな結社がStadtやBurg、Flecken、HobenやEchtenという名で成立したのです。もちろんこれらは食料商店Heringskompanieのように、自衛のために小株式を出しあい、規約をつくりましたが、長い間、国民の構成員ではなく、その決定に参与してきませんでした。彼らは単に契約にもとづいて国民が認めた権利を獲得しただけでした。最終的に、株式を持つ人々Gewahrteが多くの戦争に参加し疲弊したあとになって、株式を持たない人々の借用Borgen, und Bäten oder Beebenによってしか生計を立てられなかったため、形式的な援助を契約にもとづいてこの人々に要求し、そのために当然自分たちの同意を求め、そしてその代わりに特殊な身分Standの諸権利をこの持たざる人々に認めざるをえませんでした。国家株式会社Staatskompanieはこのようにして、貨幣株式Geldaktieを、これまで共同の防衛だけが引き受けられてきた旧来の土地株式へと変えたのでした。ただし貨幣株式を持っていたのは、国家の裕福な人間であり、新しく導入された財産税によって土地株式からよりも貨幣株式から多く取り立てられたのです。こうして身分の諸権利を与えられた人々は、もともと株式を持っていた人と釣り合いの取れた勢力を獲得したのでした。
貨幣株式は確かに、旧来の土地株式ほどは、規定されていません。我々の現在の体制において貨幣株式に投機することが不正であるとはいえないにせよ。しかし、それでも誰でも簡単にわかるのは、100分の一所有者が完全株主の諸権利を要求することはできないということであり、また10の株式の占有者が100分の一所有者よりも会社の指揮に対する優先権を持つということでしょう。誰でも分かるように、この場合人間であるということは無関係であり、貨幣株式に基づいた国家の結合においても、土地株式の場合とちょうど同じように破産する人間が多いに違いありません。土地株式にもとづいていた際には、おなじ100分の一所有者(の蝋貢納民Wachszinsige)は一ポンドの蝋で暮らしていけていましたし、彼らは共同出資しなくてもよく、しかし国民としての名誉には与れなかったのでした。
戯れかあるいはパレードのために、フランスでは公爵が自分の仕立屋とともに無給の国民親衛隊の名のもとに姿を表し、人間の権利というものを奇妙な外見のもとに示しています。しかし、公爵も仕立屋も共に無給で準備して敵と戦おうとするとしても、実際には、仕立屋には、公爵が自分の爵位のために犠牲にするのと同じだけの血を自分の店のために流せ、などとは要求できないでしょう。また伯爵は自分の爵位よりも仕立屋の店を信用するということもできないでしょう。しかし、人間の権利というものは、どんな隣人も同じように他の隣人のために身を賭せ、と要求しているのです。
人間の権利が刑法を混乱させないということがあるでしょうか。イスラエルの民は、自分たちの苦しみのほかに、ただ人間であるということを携えて荒野へ出て行き、そしてどこでも裸一貫のみで法律への服従を保証してきましたが、どんな重い犯罪に対しても同じように裸一貫で償わねばなりませんでした。人間にとってこうした刑法はどれだけ正義のものだったことでしょう。兵士にとっても同様です。彼らもまたすべてが裸一貫で償われるものなのです。しかし、こうした刑法は、土地株式によって国家株式会社の適法的な契約にもとづいてふさわしい安全を手に入れた人々にとっては、不正義にとどまります。かつてはこうした人々にとっては、株式の喪失が最も思い刑罰だったのです。こうして忌み嫌われた法律は、絞首台や刑車の処刑よりも全く厳しいものでした。これらの処刑は、いまだに犯罪者の数を減らしていないのですからね。株式の損失は、株主や妻、子供にとっての処罰だったのです。株式を失えば、奴隷になるより他に道はなかったのです。そして、どこかに庇護を見つけるまで、彼は訴えられた者の持つ権利を放棄したことになりました。他方でかれは決して身体刑を迫られることはなく、刑棒でさえ会社がそのために取り決めていた税金を払えば免除されたのでした。その税金というのは、おそらく全株式を償却するというものでした。株式を持っていたローマ市民でさえ鞭の刑を受けませんでしたし、のちになって名誉市民もまたその罰を免れたようです。というのも、使徒パウロは、ローマの都市の株式をローマ帝国の土地株式よりも少なく占有していたらしいのですが、これによって適法的な成果を収めたからです。
確かに、人民Volkというものを破産した多くの人々だと理解するならば、人民はそう簡単に、こうした高貴な刑法に遡るべきだとは認めないでしょう。かつて貨幣株式が土地株式よりも明白に確実なものではなく、消費税や人頭税が株式を持つ者と持たざる者をはなはだしく混同させてしまってからは、そうなのです。
しかし、それでもやはり深く感嘆すべきなのは、我々の粗野な先祖、いわゆる野蛮人Barbareが、こうした構想を発明し、かくも長い間幸せに暮らしてきたということです。ただしそれも、モーゼが移動するイスラエルの民に与えた法律を、貨幣株式と土地株式の混交に乗じて、キリスト教が先祖伝来の土地所有者に次第次第に押し付けるまでのことでした。しかし、立法者にとって、人間の権利にもとづいてあらゆる犯罪者をその株式の違いを考慮せず、肌にむち打ち、烙印を押し、拷問にかけ、見せしめにするということがないようにするために、強力な合図を送るということはそれほど必要なことでしょうか。
おそらく私はあなたにさらに別の機会に、抵当登記簿の助けを借りて、我々の先祖の構想にしたがっていれば、いかにして新しい株式が国民のなかに生みだされたのか、名誉と勤勉がいかに強く称揚されていたのかということを示すことになるでしょう。

*1:[普通はWare[Wahre]は商品のことを意味する単語だが、かつてはGewährつまり保有権のような意味があったらしい。DUDEN曰く、Gewährはmittelhochdeutsch gewer, althochdeutsch gaweri = Bürgschaft, zu gewährenとある。また、Zedlerの大辞典でもhttp://www.zedler-lexikon.de/index.html?c=blaettern&id=463993&bandnummer=52&seitenzahl=0448&supplement=0&dateiformat=1%27)]。

シィエスとペインの公開書簡 

毎月ひとつ訳すと自分に誓っていたのに、気付けば三ヶ月くらい間があいてしまっていました。だけどそんなのかんけーねー。
1791年、ルイ16世のヴァレンヌ逃亡事件の直後、トマス・ペインとアベ・シィエスの間で新聞紙上を通じた公開書簡が交わされました。以下はその直後にドイツの雑誌に翻訳されたものの重訳です。カントの代表制――それはもっぱら立法における代表制、すなわち代議制民主主義のようなものだと思われていますが――を考えるときのヒントもあるように思われます。

Paine, Thomas und Emmanuel-Joseph Sieyès, Einige Briefe von Herrn Em. Sieyes [sic] und Thomas Paine über die Frage: Ob die republikanische Staatsverfassung den Vorzug vor der monarchischen habe? in Deutsches Magazin, Bd. 2, Aug., 1791, 193-216. *1

トマス・ペイン、エマニュエル・シィエス「共和制は君主制よりも優れているか」*2

1. エマニュエル・シィエス氏の公衆への告知*3
私は、いつか中傷に対しても証明されえない非難に対してもそれを放置しておくことなく、人生を送りたいと思っていた。中傷について言えば、顧慮すべき必要性はいまだ見いだせないが、私が収穫しようと思えばできるくらいには収穫物はすでに熟しているだろう。ひょっとすると非難については別であるかもしれないし、それに反論できる場合もありうるだろう。例えば、私は我々の現在の状況という好機を利用して、共和主義政党を掌握しようとしている、などということが幾度も流布されてきた。私はこの[共和制という]制度の支持者を増やそうと試みているらしい。これまで私は自分の信条にあまりに一貫性がないと非難されたことはなく、私は自分の考えを状況に応じて非常に容易く変えるとも思われていないようだ。信頼できる人々にとって(唯一私が語りかけることのできる人たちだ)、一人の人間の考えを判断するのには三つの方法しかない。それは行為、口頭での言葉、著作である。これらは革命以前からあるものであり、私は決して矛盾したことはないと確信している。しかし悪習を維持し続けようとする人がいるとすれば、よろしい、私には黙っているより他に仕方がない。旧習を美化しようとしてではなく、あるいは王党主義に対するなんらかの迷信的な感情からでもなく、私は君主制を贔屓している。なぜなら、理由を持って確信しているのだが、市民にとっては共和制よりも君主制のほうがより自由があるからである。他のどんな根拠も私には子供だましに見える。私の考えでは、社会が最も首尾よく設立されているのは、ただ一人だけ、あるいは数名だけでなく、すべての人があらゆる可能な自由を、その最大の範囲において、邪魔立てされずに享受する場合である。こうした特徴を私は君主制国家に見出しているのだから、君主制を他の体制よりも贔屓しなければならないことは明らかである。これが私の秘密の原理のすべてであり、何も隠し立てのない信条告白である。おそらく私はまもなく余暇をとって、こうした問題に取り組むだろう。その後で、私はどんな共和主義者に対してもきちんと向かい合うことになるだろう。彼らを異端だと決め付けるつもりもないし、異端判決を召喚することもなければ、中傷するつもりもない。尊敬し心より敬愛する人々を私はたくさん知っている。しかし、彼らの論拠には反論するつもりであるし、特定の状況において君主制が優先されるべきというのではなく、常に君主制が優先されるべきだということを証明しようと思う。共和制におけるよりも君主制における方が自由なのだから。誤解されないように急いで付け加えれば、私の君主制についての考えは、王室歳費Civilliste[liste civile]の賛同者たちが思い描くものとは必ずしもすべて一致するわけではない、ということである。例えば、贈賄したり陰謀をねったりする能力が真の国王の尊厳に必須の要素だとは、まったく思わない。むしろ逆に、国王の尊厳というものは何によっても堕落させられたり無に帰したりすることのないものだと考える。三千万もの歳入に公的に同意することは、自由に著しく反するし、私の原理に従えば、それは非君主的anti-monarchischである。

*1:https://books.google.co.jp/books?id=btkpAAAAYAAJ&dq=%22Deutsches%20Magazin%22%201791&hl=ja&pg=RA1-PA193#v=onepage&q&f=false

*2:これらの書簡は二人の重要人物によるものであるが、そこでは人類にとって重要な問題が研究されることが告げられている。その問題はフランス国王が逃亡したことによって最近再び活発に論じられるようになったもので、それをめぐってフランスでは目下、さらなる熱意を持って論争が為されている。公衆はこの論争が何故生じたのか、その理由についてはほとんど知らないが、この二人の人物の間の戦いは、公衆の面前で行われるであろう。この書簡は言わばこの戦いの火ぶたを切って落とすようなものだ。我々がこの論争自体の成り行きを読者諸氏にお届けするのは字義に適うだろう。

*3:1791年の国民新聞187号に掲載[Emmanuel Siéyes, Variétés, in Gazette Nationale ou Le Moniteur Universal, 187, 6. 7. 1791. 以下は復刻版。https://books.google.co.jp/books?id=c6UNAAAAIAAJ&hl=ja&pg=PA45#v=onepage&q&f=false]

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アウグスト・ヴィルヘルム・レーベルク「理論の実践に対する関係について」

August Wilhelm Rehberg, Über das verhältnis der Theorie zur Praxis, in Berlinische Monatsschrift, Bd. 23, 1794, S. 114-143.

ググったらスタンフォード大学の哲学辞典に項目があってびっくりしたのですが、それもそのはずドイツ思想史の研究者、フレデリック・バイザーの執筆項目でした。レーベルクは18世紀末ドイツの保守主義者の一人と数えられる人物ですが、カント哲学の信奉者でもありました。詳しくは、辞典の項目を参照のこと。ここに訳した論文は1794年に『ベルリン月報』に発表されたもので、93年のカントの論文『理論と実践』に触発されて書かれたものだと考えられます。カントの『理論と実践』は三節構成になっており、それぞれ道徳法則・国法・世界市民法における理論と実践というテーマが扱われていますが、レーベルクにおいてもその節構成を踏まえたものになっています。カント自身が『理論と実践』を書いた動機としては、明示的には通俗哲学者クリスティアン・ヴォルフへの反論ということになっていますが、政治的な動機としてはフランス革命を見据え、国家・法・政治について理論的に捉え直す機会としたということもあるでしょう。カントに触発されて、同年にはバーク『フランス革命省察』の独訳者として有名なフリードリヒ・ゲンツが『理論と実践の関係についてのカント教授の議論への補足』という論文を、こちらも『ベルリン月報』に発表しています。カント、ゲンツ、バークのこれらの論文のやりとり(論争というにはカントがあまり反応したようには思われないのですが)は、ディーター・ヘンリッヒによってある書物にまとめられています。ゲンツの論考については千葉大学のレポジトリで訳が公開されています。また、ヘンリッヒのイントロダクションについても私訳が僕の知り合いのブログで公開されています。本書には、クリスティアン・ガルヴェの理論と実践に関する3つの論考も収められています。

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クライン「思考の自由と出版の自由について」

エルンスト・フェルディナンド・クライン「思考の自由と出版の自由について。君主、大臣、著述家へ」
Anonym [Ernst Ferdinand Klein], Ueber Denk- und Druckfreiheit. An Fürsten, Minister, und Schriftsteller, in Berlinische Monatsschrift 3, 1784, S. 312–329.

プロイセン一般ラント法の制定に携わった啓蒙的官僚の一人、Ernst Ferdinand Klein(1744-1810)の匿名論文です(後の自伝のなかで明らかにしました)。フリードリッヒ大王を讃え(というより半ば伝説化し)、言論の自由を擁護しつつ、その限界も規定するものですが、とりわけ興味深いのは、言論の自由を政治的観点から、しかもモンテスキューの理論を改変する形で用いて、擁護しているところです。政治的自由は中間権力によって温和になった統治形態にしか存在しない、というモンテスキューのテーゼは、ドイツでもすでに当時有名でした。ラントの特権貴族層をモンテスキューの「中間権力」と解釈して(立法あるいは司法の)権力に携わらせようとする人らがいたのに対して、一般ラント法の制定者たちはそうした特権集団を排して、絶対主義化を推し進めようとしていました。クラインはこの文脈のなかで、貴族に中間権力の役割を当てるのではなく(「それは国王権力の有害な発動に対抗して働くのと同様に、その有益な発動に対抗しても働く」)、言論の自由にこそその役割を割り当てて擁護するのです。支配への服従と両立する言論の自由というテーゼは、クラインの数カ月後に発表されたカントの「啓蒙とはなにか」にも顕著であり、両者は文通関係にありました。モンテスキューの中間権力を言論の自由に割り当てるというのは、比較的ユニークなものですが、例えば知る限り、Augst Ludvig von Schlözerのような人物も言及していたりするテーゼです。他にも、rässonierenという独特な言葉(これもカントも使っていますが)があったり、自由と思い上がり(Freiheit und Frechheit)という当時の主要なテーマに繋がる部分があったりして、そのあたりも面白いものです。
クラインはフリードリッヒ大王の著作からのかなり恣意的な引用をして、大王がいかに言論の自由を擁護しているのかを示していますが、その部分は重要と判断した部分しか訳していません(大王の著作はフランス語で書かれており、それをクラインがドイツ誤訳したものの重訳になります)。

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フンボルト「政体に関する理念――新しいフランス憲法をきっかけとして」

今日取り上げたのは、リベラリズム(あるいはリバタリアニズム)の古典的思想家として(もっぱらミルの賞賛から)有名なヴィルヘルム・フォン・フンボルトです。日本ではフンボルトの政治思想を専門にして研究している方はごくわずかみたいですが、他方でその「教養」の理念なんかは積極的に研究されていた時期があるようです。
1790年にベルリンの王室裁判所Kammergerichtで働き始め、同年夏に辞任して、妻の財産で隠遁生活を贈るようになりました。ドイツ・ジャコバン派のゲオルク・フォルスターGeorg Forsterと手紙のやり取りがあり、その中でも政治的話題、とくにフランス革命について議論を交わしていたようです。フランス革命の理念には賛成だが、その現実の兼ね合いについて反対である、というタイプの議論は当時よく見られたものでしたが、フンボルトは初期ロマン派的な語彙によって自分の議論を展開しています。

Humboldt, Wilhelm von, Ideen über Staatsverfassung, durch die neue Französische Konstituzion veranlast. in Berlinische Monatsschrift 19, 1792, S. 84-98.

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トムソン「あるイングランド人による市民社会と国家体制の本質と最終目的に関する現在の紛争の考察」

「あるイングランド人による市民社会と国家体制の本質と最終目的に関する現在の紛争の考察」

一つ前の記事でビースターが言及していたのが、この記事です。William Thomsonという人物がSamuel Parrに送った書簡の紹介をドイツ語訳したものの翻訳です。ビースターは自然神学や、民主政擁護、君主政批判の気配がある箇所を訳していません(意図的なものかそうでないかは定かではないですが、前者の可能性が高いという気がします)。この論文は、形而上学に対して経験知(ないしは思慮)を重要視し、唐突な変化よりも徐々に生じる変化を擁護するものになっています。90年代イングランドの政治的思潮も気になるのですが、そこまでは手が及びません。

Thomson, William, (übers. und hrsg.) Johann Erich Biester, Einzelne Gedanken eines Engländers über die gegenwärtigen Streitigkeiten in Betreff des Wesens und Endzwecks der bürgerlichen Gesellschaft und der Staatsverfassung, in Berlinische Monatsschrift (20), Nov. 1792, S. 479-90.

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