ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

ビースター「ギリシア人の国制の理念に関するいくつかの報告」

Johann Erich Biester (1749-1816), Einige Nachrichten von den Ideen der Griechen über Staatsverfassung, in Berlinische Monatsschrift Bd. 21, 1793, S. 507-537 (pdf).
「ギリシア人の国制*1の理念に関するいくつかの報告」

ギリシア人の書いたものを自分では読めずその歴史を完全に記憶してはいない人にとって、おそらく役に立つだろうと思われるが、この注目に値する啓蒙された国民が、現在いたるところで話題と考察の種になっているもの――国制――について主にどのような理念を持っていたのかをここに要約した*2。最近のフランス人は、とくにまさに一般的な共和政的体制(eine ganz allgemeinen Republikanischen Verfassung)の賛同者は、古代ギリシアをよりどころにしていることが多い。そして事実、多くの読者は後者[古代ギリシア]に最も無制限な人民支配を想定しているのである。これがどれほど正しくないかということが以下では示される。おそらく驚かれるであろうが、純粋民主政や共和国の統一、貴族の破壊、国王への嫌悪、市民の平等といった概念、簡潔に言えば、現在、世界を改革しようとする人らに取り付いてはなれない概念については、ギリシアの例からはほんの僅かの証拠も見当たらない、ということなのである。

ともあれ、こうした誤った主張に反駁しようと思わないでも、この民族の哲人が国制についてどのように考えていたのか、また、立法者は国家をどのように設立したのかということを見るのは大いに労をとるに値することである。というのも、前者[哲人]は、それ[国制]に関する現実性をなおざりにするほどの「原理の高み(Höhe der Grundsätze)」に達しはしなかったからである。プラトンはずっと国事(Staatsgeschäft)を指揮する準備をしていた。彼は、祖国にいる間も長旅の途中も、このことについて考察していた。そしてシチリアではいくつかの計画を実行に移そうともした。彼はメガロポリスやキュレネから呼び出されて、これらの地域のために法律を練った。もっとも、その間、彼は極めて生き生きとした幻想(Phantasie)に取り憑かれていたし、多くの実行不可能な理論に執着していたのではある。それに対してアリストテレスは、最も思慮深い学者であり、疲れを知らない収集家であって、現在まで世界に知られているが、彼はほとんどすべてのギリシアの国々とそうではない(バルバロイの)国々の法律と組織(Einrichtung)をまとめあげた。その論考は驚くべき完成度であって、大国とともに小国の国制を把握しており、それはイタカのような小島でさえも例外ではない。自国の国制も、外国の国制、たとえばマルセイユカルタゴなどの国制についても把握されているのだ*3こうしてアリストテレスは事実を目の前におき、悟性でもってそこから最終結論を引き出し、こうして何世紀もにわたる経験にもとづいて研究に取りかかったのだ。こうした精神とは、なんと対照的なことだろうか。浅薄で無知な駄弁家たちは、フランスで突如立法者にまで成り上がり、空想的な思弁による霊感にしたがっているのだ。彼らは物事の調整が抵抗にあうや、ポープの詩の中で悲喜劇的に叫び声をあげたあの愚か者と同じことになってしまう。「ああ、神よ! なぜ2かける2は4なのですか!」*4とはいえ、国制自体に関して言えば、ギリシアにはどんなに隣接していようとも、2つとしてまったく同じ立法を持っていた民族、都市はなかったのである。それどころか、国制を変えなかった国家は一つもなかったのであり、それ自体で見れば多くの国家が、またほとんどと言えるだろうけれどすべての国家が国制を変えたのである。ギリシア人のもとでなされた最も素晴らしく自由な活動の中に現れでた人間精神は、あたかも最善の統治形式(Regierungsform)は何かという大問題についても可能な限りの試みをなそうとしていたかのようなのだ。

このような多様性からすでに分かるだろうが、政治について熟考しようとするいかなる人にとってもギリシアの国制を研究することは重要なのである。しかし同時に、一つの論考では、目下のところ試みるよりも正確なギリシアの国制の叙述は不可能であることもお分かりだろう。ここではただ、いくつかの主要な覚書を記すにとどめておくことしかできない。これは、現在もっとも喧しく主張されている事柄がさしあたりきっかけとなって書かれたものである。

1. 総じて、ギリシアの中で最強の部族は、その最盛期にあっては、たいてい自由国家(Freistaat)を打ち立てた。しかし、それよりも昔であったり、自分たちの状況次第では、君主政を打ち立てることもできた。マケドニアを支配していたのは王であったが、最終的にはいとも簡単にギリシアの全自由国家に屈服してしまった。エピルスのモロッソイ人は王に服従していた。王の一人は自分の権力を制限することにさえ満足を覚え、評議会(Senat)*5や法律、さらに多くの役人(Obrigkeit)を導入した。また、ラケダイモンでは2人の王がいたが、しかし最終的に国制の堕落(Ausartung der Konstituzion[ママ])を経て、名ばかりの王しかいなくなってしまった。――重要な国家はみな、かつては王のもとにあった。しかし統治形式が変わったとき、かつての国制の記念碑を破壊しなければならない、と人は思ったのではなかった。かつての王侯の立像は誇らしげに飾られたままだったのである。その壮麗な遺贈物は神聖な場所に飾られていた。共和政的な人民は舞台上に彼らの国王の物語を見、その運命に涙し、その所業に感嘆した。アテナイの家族にはその家系を国王にまで遡ることのできるものがいくつかあったが、それゆえに彼らは大いなる威信をもっていた。しかし、これら情熱的な自由の愛好者は、高貴とはいえない激しい憤怒や、意見の恥ずべき不寛容によって、まさに身を立てていたに違いない。アテナイ人の偉大な著述家たちは、事実通り、ペルシャ皇帝をその寛大さや、賢明な施策(Einrichtung)、人民の幸福への配慮のために、大いに賞賛し、臣民が皇帝を愛しているのだと記述することができた。

2. そして、さらに! 政治家の中でもっとも聡明な人らは君主政的体制を非常に激しく擁護したのである。人間は、悪に圧迫された時には 常にその原因を自分以外のところに探すということ、国家市民(Staatsbürger)はその原因を一般に自らの国制の中に探すということ、これはなんと正しいことだろうか! 後者[国制]が変わりさえすれば、自分たちは前者[悪]から解放されるのだ、と彼らは考えるのである。自分たちがなした残虐な振る舞い、気まぐれに引き起こされた紛糾のいっさいが、我々の時代にあっては一人の無力な国王に帰せられたのを我々は聞き知っている。そう、いかにも! 徒らに流された国王の血でもってしても、あの罰すべき国の罪は清められはなかったし、秩序・理性・徳は戻っては来なかったのである…。アテナイの哲学者は民主政の突然の騒乱に対して憤った。それはすぐに残虐な専制(Despotismus)を、無政府状態(Anarchie)の暴走を引き起こしたからだ。しかし、これによって別の[統治]形式への憧れが生じたために、彼ら哲学者の判断が決定されたというだけではない。彼らの信念は、国王支配(Königsherrschaft)の利点を認識していたようなのである。クセノフォンが最高に幸福で強力な国家を描き出したとき、彼はペルシアの帝政の偉大な創設者を一人の人物像の中に描き出した*6のだが、それは何世紀も後になってもあらゆる人の魂を熱狂させているのだ。アリストテレスや多くの哲人(Weltweise)が最も完全な統治形式について述べようとするなら、彼らはあからさまに、そして詳細な理由を挙げて君主政に賛成するだろう。こうした大家はやはりあまり変なことは言わないものである。

3. こうしたギリシアの自由国家には(1)*7、安寧と真の幸福がはなはだしく欠けている場合が非常に多かったということ(2)、これをここでこれ以上説明する必要はない。ただ私が述べる必要があるのは、結局のところほんのわずかな自由しかそこには見当たらなかった、ということである。小国の主要都市(Haputstadt)は、しばしば僭主的に(tyrannisch)にかつまったく不当に、その土地の、他の諸都市の、そして島々の臣民を支配していた。統治(Regiment)に参加していた市民の数は多かったけれども、臣民の数はそれよりずっと多かった。臣民がどういう状態で暮らしていたのかということは、ギリシア人によって卓抜して抽出されたコメントから明らかである。それによれば、最大の自由のもとで最大の奴隷が暮らしており、共和政的な支配者(Gebieter)は臣民を非常に厳格に取り扱っていた。いわゆる同盟者(Bundesgenosse)でさえも厳しく抑圧されていた。ある地方の同盟都市も個々に見れば自由国家ではあったけれども、普通議会(allgemeiner Landtag)が開かれる盟主の都市にはまったく奴隷のように服従していることが多かったに違いない。スパルタのあるラコニア地方ほど、こうした服従が厳しかったところはない。だからこそ、ほとんどすべての自由を奪われたラコニア人は自分たちの貴族政的支配者であるスパルタ人を心から憎んでいたのだ。にもかかわらず、それはある観点からは正しいとしても、スパルタは最高の政治的自由がある場所だと考えられているのである。

4. しかし、こうした諸都市の同盟制度(Föderationsystem)*8はほとんどあらゆるところで導入されていた。例えば、ラカニアやテッサリア、アカイアのような重要な地方だけでなく、エリスやアカルナニアのような重要ではない地方にも導入されていたのである。この場合、2つの状況しかなかった。それは、ラコニアでスパルタが、ボイオチアでテーベがそうであったように、同盟の盟主が他の都市に法律を定めるか(3)、あるいは同盟決定をくだしても、それが全体に対してはほぼすべての実効性を失うかのいずれかであった。ギリシアの小アジア半島でも同様で、アイオリスやイオニア、ドリスは没落の危機にあったときには、その力を結集しなかっただけでなく、これら3地方のいずれにおいても、自分たちの議会が下した決定さえもその地方の人民を厳密に義務付けることはなかった。その結果、ある都市は征服者と特別な平和条約を結び、同盟都市も同じ代償を支払うことができたのである。実際のギリシアも同様であった。テッサリアでは、すべての州(Kanton)だけでなく、すべての地区、都市が、普通議会を持っていたにもかかわらず、互いに独立していたので、この議会の決定はそれに同意した小さい村落にしか拘束力を持たなかった。例えば、オエテア州は14の地区に分けられており、ある地区の住民は議会が戦争を決定した時でも、ともに出征するのを拒むことができた。

これら2つの同盟制度の形は、おそらく非常に遠隔の地方都市(Munizipalität)においても考えられるだろう。しかし、前者[同盟の盟主による立法]は誰が見ても自由な形式であるが、後者[自分たちによる立法]はそれに対して、平穏で堅固な幸福にとっては不利である*9の市町村庁に対してそうであったように*10――さらにギリシア人には一つの一般的な同盟があった。隣保同盟である。しかしそれは、前者の不足を補うことはできなかった。というのも、この議会は帝国議会というより帝国裁判所のようなものだったからである。それに加えて、この議会は一方でただ個別の事例にしか判決を下すことはなく、また他方でその裁判権は全ギリシアに及ぶことはなく、また他方でそれは判決を執行するための十分な権力を持たなかったのである。

5. これまで述べられてきた状況の本来の原因は、彼ら[ギリシア人]が代表制度(Repräsentazionssystem)を知らなかったという点にある。ヒュームがそれを近時の発明と呼んだのは正しかった。古代人はそれについて知る由もなかったのだ。しかし、ルソーが次のように示したのはもっと正しかった*11。つまり、古代人はそれについて[代表制度]知ろうとさえしなかったのであり、また人民の主権(Souveränität)や自由、平等について語るということと代表者を選任するということは最大の矛盾(Inkonsequenz)であって、真の自由国家を設立することができるのは、ただ一つの都市やせいぜい少数の人民だけであり、そのためには職業軍人を雇うのではなく自ら戦争へ赴かねばならず、代議士(Deputirte)を送らずに自ら議会(Versammlung)を開かなくてはならず、最後に、奴隷を持たなければならない。こうしたこと全ては望まないあるいはできないというのであれば、前者[自由国家を持つこと]を諦め、その自然にしたがえば相容れない物事を結合しようという愚かで無駄なことをしないでおくだろう。

ギリシア人は真の国民議会(Nationalversammlung)を持っていた。というのは、国民すべてがそこに集まったからである。したがって、議会の構成員はとてつもないほど多かった。ベザンツについて、ある将校が人民が公的な国事(Staatsangelegenheit)について協議していた場所のことを描写しているが、そこは十分に広く、小軍が戦列を組むことができるほどであったという。アテナイでは大抵の場合、人民議会の決定が法律となるためには、6000票必要であるということが決められていた。規則からの逸脱として見られたのは、長期間続いたペロポネソス戦争のあいだは、非常に多くの市民が死亡したり祖国を離れたままであったために、普通議会においては5000人未満の市民しか集合しなかったということである。評議会(Senat)はアテナイでは500人の実際の同胞と、500人の代理の同胞で構成されていた。当地では裁判所でさえも同様に非常に多くの人によって占められており、個々の法廷は500人以上の人で構成されていた。実際、ある種の重要な事件においては6000人の裁判官が判決を下したのである。アルカディア地方の主要都市であったメガロポリスには、10000人の市民が、この地方の多くの政務をとり行い、そのためだけに建てられた建物の中に集ったのである。

6. したがってこのようにほとんどのすべての国家は同盟制度を持っており(4)、その場合、ギリシア国家は自由を妬んではいたものの、こうした自由の分割を不快なままにしておいたのではなかった。そしてこのようにして各国家、まさにほとんどすべての都市には真の人民議会があり、それは今日言われるよりも高度な語義においてそうなのである(5)。しかし、にもかかわらず、純粋な民主政はなかった。というのも第一に、まさにメーザー(Möser)的な「いったい誰が国民[Nazion]なのか」という問いに対しては、ギリシア人であれば次のような答えを極めて危険な(abenteuerlich)ものとみなしただろう。その答えとは、国民とは国家あるいは都市に住んでいる人すべてだ、というものである。ギリシア人は非常に厳密に人間と市民を区別した。服従している人民は、戦争によって獲得されたか同盟(Bundesgenossenschaft)によってそそのかされているか(3)しているのだが、彼らは本来の市民には数えられてはいなかった。しかしまた主要な都市においても、あるいは支配にあたっている国々でも、相当な違いがあった。奴隷の数は全ギリシアでは市民の数をはるかに凌いでいた。アッティカでは奴隷は40万、市民*12は2万、在留外国人は1万人であった。こうした外国人は死刑の際に、国民議会に列席することは許されていなかった。これは、国事の指揮と同様、市民の排他的な特権だったのである。そして市民になるためには、どこでもある種の条件を満たさなければならず、この条件の厳しさは国ごとに異なっていた。アテナイに関して言えば、市民の息子か娘でなければならなかったし、他の自由国家では、先祖が市民である家系に出自を持たなければならなかった。また、アリストテレスはさらに別の必要条件を規定している。アテナイでは、市民の中にも様々な身分さえ存在した。第一身分は、生まれや財産、徳、才能によって際立った人から構成されており、彼らはそれによって本質的な特権を持っていたのではなく、階級の名誉や演劇場での優先席といった名誉に浴していた。また、さらに市民にとって、国民議会のメンバーになったり当局の役職(Amt)に選出されるためには、経済力や暮らしぶり、教育なども重要であった。必要とされる能力をどのように決めるかということに関しては、立法者と哲人は互いに意見を異にしていた。ボイオーティア人は小商人に役所の職を与えた。教育は古代人にとっても政治的教育(politische Bildung)に関係があった。政治教育を受けていない人はどんな人でも、国家の活動的市民(tätiges Mitglied)とはなれなかった。

こうしたギリシアの国家市民(Staatsbürger)を真の貴族(Adel)と予防としないのであれば、単に言葉遊びに興じていることになるだろう。名は事物とは無関係である。今日でも、ベルンでは統治にあたる家族は、他の家族と区別されて、市民と呼ばれる。当時も現在と同様に、真の世襲貴族(Erbadel)がいた。というのも、ギリシアの自由国家の市民は出自を通して、公的役職への権利を受け取っていたからである。ただしその権利は災厄によってか犯罪によってか失われてしまったのであった。出自によって非市民(Unbürger)は、何世紀もそこにとどまっている外国人であっても、官職(Staatsamt)への権利から排除されていた。とはいえ彼らは、特別な事情や業績などのために階級を上昇させることはできた。――したがって少なくとも、いわゆる人間の権利(Menschheitsrecht)(それはしかし同時に政治的権能にまで行くつくだろうけれども、しかしそれに対しては人間としての人間は権利を持つことはできない)に関しては、ギリシアの共和国の例に裏付けを求めることはできない。それは、そんな裏付けがどの時代にもまた世界中のどんな人民の例の中にも見いだせないのと同じである。

ここから同時に、もうひとつの目立った事情についても明らかになる。古代の政治家(Staatsmann)は決して人口の拡大に好意的ではなかった。それに対して、現代では人口を十分に増やすことができるなどとは決して思わないようになっているのである。全て農場が分割されているのに、いまだ隷農(Hintersaß)や植民者、分農場の出資者(Anleger einzelner Vorwerke)が場所を見つけているとしたら、閉鎖的な村は何をすべきだろうか…*13。たいていの国家は植民地へと人々を送り出すという手段をとったし、より多くの立法者は市民の数を精確に規定し、より多くの地方は実に子供の遺棄さえ許容していた。このことについては、その他の点では優秀な哲人の多くが同意しただけでなく、彼らは一般に子供の数をきちんと定め、実りある結婚生活を送る人らにもその果実[子供]を捨てるように促したほどだった。――こうした現象の謎を簡単にかつ適格に解くには、ランツァウ伯(Graf Ranzau)の書いたものを見るのが一番だ*14。「こうした住民が、自由で統治行政(Regierungsverwaltung)に参加する市民だと考えられている。語の狭い意味での市民にとって国家は好都合すぎるくらいかもしれないが、臣民にとってはそうではない」。いわゆる特権階級は、いくつかの国ではまさに臣民によって養ってもらっており、それはスパルタ人がヘイロタイに、テッサリア人がペネスタイに養ってもらっていたのと同じである。言わば常設の軍隊の数は、無限に増えてはならず、土地耕作者の数と比例を保っていなければいけないのである*15

7. さらに、[ギリシアは]純粋民主政でもなかったが、それはどこにも真の平等というものは見出すことができないからであった。古代人はこの点でも近代人(die Neuern)よりも一貫していた。近代人は自由国家を設立するにあたって、ただ称号[Titel]を廃止しただけであり、平等の本質については、平等を自らの女神だと宣言しながらも*16、考えていない。多くの立法者や政治家は少なくとも、どのようにすれば平等を市民のもとに(というのもここ[ギリシア]では多くの非市民のことは、あいかわらず問題になっていないから)うまく導入することができるかについて、企図していた。リュクルゴスはラコニアの土地を等しい相続物になるように分配し、その処分、相続、合併について法的に規定した。多くの人が恒久的な財産の平等を部分的にはまったく奇妙な方法によって維持しようとしたが、事物の自然というものは押し付けることのできるものではないので、決してそれは実現しなかった。コリント人の立法者であるフェイドンは財産の不平等を持続させ、それに対して家族と市民の数を取り決めた。ソロンは政治的平等を確立することに関しては最も洗練されており、それは自由国家の様々な身分のもとでも成り立たなければならないものであり、さらに国家体(Staatskörper)の個々の部分がうまく互いに規定し合い制限し合うようにしなければならなかった。

もっとも、ギリシアのサン・キュロット(Unbehosete)も、とりわけ名誉欲の強い謀反の首謀者に扇動されれば、いたるところで支配者(Meister)を演じようとした。富者と貧者の互いの憎悪は、ギリシアの全ての共和国の癒しがたい病であった。そしてより良質な人間は遺憾ながらも、こうした争いがいたるところで名誉と徳の原則を無きものにしているということを知っていた。彼らはそれに抵抗してよく身を守ったが、それは防波堤を尽く決壊させることで群集の粗野な思いあがりと野蛮な利己心にむけてこの流れを噴射することになってしまった。

8. 民主政的な形式は次のようにして導入されることが常だった。支配に飢えた市民が目的を達成するために人民に媚を売り、そして人民により大きな特権を与え、そうして市民自らははじめは人民を使って高貴な人らの上に、最後には両者の上にたって勝利を収めた。これがアテナイの場合であるが*17、まずはペイシストラトスがソロンの法をある程度変え、その後ペリクレスがさらに嘆かわしいことに評議会やアレオパゴス会議などの権力を非常に弱め、大して群集に威信を付与したが、このことはのちに国家を堕落させることしばしばであった。いったいどのようにしてこうして成立した形式が、最善のものあるいは自然によって定められたものだと賞賛されるようになっただろうか…。ギリシアでは啓蒙された人々は、人民政府(Volksregierung)のもつ害悪を、それが平衡(Gleichgewicht)を保つことができないために、非常に明確に理解していた。僭主に向かって平衡を失っていく(Übergewicht)のが群集であった。そしてギリシアは異邦人も7賢人のうちに数えいれており、彼らは当地ではこういったという*18。「君らのところでは知者が研究をするが、愚者が決定をする」。同じことを高貴な人らはアテネに対しても他の多くの場所についても、なんとしばしば嘆いたことか! ラリサでは人民がすべての役職(Obrigkeit)を選んだが、強調して言われていたのは、当局は人民に媚を売り、人民の移り気のせいで国の幸福が犠牲になったということである。――アリストテレスは共和政と民主政を区別し、後者は確かにすでに当時から夢想家たちが真の自由の住処として称揚していたが、アリストテレスはそれをただ堕落形式だと宣言したのだった。彼は人民投票よりも抽選で役職を任命したいと考えていたし、一般的に国制の中に寡頭制(Oligarchie)から多くのものを混合した。

9. 共和政的制度の支持者を民主政体論者と貴族政体論者に分けるなら、ギリシア人の中でも最も高貴で賢明な人間が後者の支持に回っていたと分かる。ピタゴラス学派からは多くの偉大な政治家や立法者が排出されたが、その学派の精神にふさわしく、彼らはみな、小数の勤勉に陶冶された、自然・人間・政治の知識のあらゆる秘密を知っている人々が頂点に立つべきだと考えていた。リュクルゴスの施策は非常に厳しい貴族制をもたらしたが、それらがどこでも賞賛されていたということは周知の通りである。しかし、ドリスの全部族はラケダイモン首領にしており、性格の甘さや厳しさの点で様々であったにも関わらず貴族制を好んだが、他方で軟弱で軽率なイオニア人は、アテナイ首領にしていたが、民主的な形式を好んだ。後者は、スパルタ人が海洋の支配を掌握したとき、彼らによって非常に粘り強く根絶され、そのことで人々はスパルタ人に感謝したに違いない。なぜなら人民権力(Volksgewalt)の濫用によって、どの国家においても不和が、ギリシア全体においては戦争が恒久化されていたからである。ただし、アテナイの偉大な人々は貴族制に反対だったわけではない。ソロンは人民権力をなみなみならぬ仕方で制限していた。そして、人民権力がその後急成長したということは、単に根源的な統治形式の堕落によるものであって、それは上述(8)したように名誉欲の強い者らによって引き起こされたのだった。同様の考えを、もう死んでしまったがある有徳で賢明な人も持っていた。フレレ*19の非常に洗練された鋭い見解によれば、ソクラテスの判決の主要な原因とは、彼が秘密裏の貴族政体論者一派だったということにある。こうした思想によってソクラテスは告発され、人民派(Volkspartei)からなる裁判官を憤激させたというのだ。しかし彼の思考様式は直接的・間接的な弟子たちのうちに育まれていた。フォキオンや、ディオン、プラトンプラトンの弟子らはみな、民主政的専制という多頭の怪物を忌み嫌っていた。哲人は当時、真剣に人類の改善に取り組もうと決心したのだ。シチリアで、そのはじめての試みがなされることになった。しかしそこではディオニュシオスが彼らの美しい希望を挫いてしまった。気高いディオンは再びこの希望に生起を吹き込んだ。この島には彼とともに多くのプラトンの弟子がついてきていたが、そこで彼は統治形式に関する計画を構想した。それは、古代の国制に適っており、君主政であったが、とりわけ反アテナイ的なかたちで、人民には物事の指揮に恒久的に関与させないようになっていた。

10. 最後には、全ギリシアのどこにも、少なくとも法的には、純粋民主政は存在しなかったと言ってもよいだろう(6)。というのも、いたるところで――簡潔さのために最近周知されるようになった表現を使えば――二院(zwei Kammern)があったからである。古代の立法者は、難問をいとも簡単に、子供にしかふさわしくないような仕方で解決したのだが、それは次のような機構(Maschine)を設立することによってだった。すなわち、ただひとつの力のみが機能し、対抗力(Gegengewicht)がそれを何らかの仕方で制限するようなことがない、という機構である。多くの部分を結びつけることなしに、それらを互いに秩序立てて関係づけることなしに、洗練されていて複雑で、とかく相当な作品を考えることができるだろうか。機構(Einrichtung)をそのままにしておいて、その機構が確実に長続きすると言えるだろうか。すべてのものが自らの中にすでに腐敗と死の芽を宿しているのではないか、その発芽を妨げて常に新しい生命の源を開示する力がそれに対して置かれる必要はないのか。――フランスでは実際に人民が支配しているとすれば、何がこの支配に対して、それが僭主政治(Tyrannei)に、専制(Despotismus)に堕落しないように、限界付けるのか。あるいは、これは事実そうなのだが、人民の代表者が統治する(regieren)とすれば、何がこの代表者たちの不当行為(Anmaßung)に対していわゆる真の主権を保障するのか…。それに対する手段が一つ残されてはいる。それは人民蜂起(Volksaufstand)、すなわち、まったく恥ずべきことだが最新の憲法のなかでいまだに言われているように、反乱(Insurrektion)という最も神聖な権利、最上に神聖な義務である*20。なんと忌まわしい手段なのか! 悪そのものよりも邪悪だ! またどんな政治家が、動きを停止した機構を助けることもできず、あたかも許されているかのように、機構そのものを破壊することができるというのか! いくぶん穏やかな手段があるとすれば、それは本当の人民が集合し、常に代表者とその施策に合意するか拒否するかすることだろう。だが、この世で最も重大な出来事(例えば国王の処刑であるが、しかし彼の違反行為と言われているものに対しては法律でさえ処罰としてはただ王位の剥奪以外には示していなかった)を、いわゆる第一次集会(Urversammlung)*21で人民の前に持ち出すということが合法(Rechtens)なのかどうかは、今まで誰も知らないし、今でもなおわからないのだ。さらに、この第一次議会を代議士(Abgeordnete)を召還するために開くことができるか、ということも誰にもわかってはいないのである。

ギリシアのすべての国家や都市には2つの異なる大きな合議体(Kollegium)があり、国の施策や業務に従事していた。それは評議会(Senat)*22と人民議会である*23。ここではアテナイの国制を説明すれば足りるだろう。というのも、他のはるかに民主的でない国家については、このことはいっそうよく当てはまるだろうからである。評議会は――ソロンの立法のように――まず国家の大事業に従事し、それらを審議し、それから人民にそれを伝え、そして彼らの協議を監督しなければならなかった。年に4回だけ人民は集合したが、異常事態の時にはもっと頻繁になりはしたものの、こうした状況がどれほど深刻化は評議会が決定し、そのあとで評議会が人民を召集したのだった。それに対して、評議会自体はつねに議会に席を持っていた。評議会が決定したことは、人民の同意なしにでも、一年間は法的効力を持つことができた。[評議会と人民の関係が]逆になるようなことは決しておこなわれなかった。国制国制の基本原則は、評議会を通過していないものは人民からは生じてはならず、評議会が先に同意したのではないものについては人民は決定してはいけない、というものであった。評議会首領(Präsident)らは国民議会(Nationalversammlung)に評議会で決定されたことを伝えると、国民議会の政治弁士(Staatsredner)が出てきてそれについて協議した。問題が十分論じられれば、首領らが投票のために歩み出てきて、そして国民を解散した。――(第三の高等院であるアレオパゴス会議は、憲法の維持と習俗を監視していたが、個々ではふれないでおく。というのも、アテナイの国制全体について述べているのではなくて、ただほとんどのギリシアの国家に共通のものだけを述べようと思うからである。)

このように、ソロンは指示したのである。ただ、その後になって(8)、変化が生じ、人民には多くの特権が認められたのだが、それはしかし本来の国制、そしてまた国家の幸福と安寧とはまったく一致しないものであった。――もっとも上で(8)民主政的無秩序の原型として述べた国家も、法的には同じ体制であった。ラリサでも、ビュザンティオンでも、評議会があって、そこで前もって決定されることなしには人民は何も試みることができなかったのだが、評議会は後にほぼすべての威信を喪失してしまったのだった。

11. [第1の抵抗権に対して]第2の、人民に今や公的に予告されている権利、すなわち憲法(Konstitution)を改正する権利もまた、ギリシア人は恐ろしい悪だと考えていた。彼らはよく知っていたが、時間の経過とともにどんな民族も自らそうした権利を得ようとする、あるいはより適切には、この世の一切の事物の調整には形式が徐々に変わっていくことが必要になるか、実際変わっていくのである。彼らはただ、突然に震撼が起きるような恐ろしいことだけは避けようとしていた。ギリシア人はフランス人よりも、まことに賢く同時に一貫していた! フランス人はあの危険な人権をすべての国家市民に保障しながら、しかし憲法に関する議論の最中に誰かが独裁者(Diktator)、すなわち連邦制度(Föderativsystem)に提案を投げかけようとするだけでも死刑を課するのである。

ギリシアの政治家は国制の転換に結びついたおぞましいことどもを十分に恐ろしくは描くことはできなかったが、慎重にその原因を解明し、それに対する手段を見つけようとした。立法者はなんとかして当該の施策を長持ちさせようとした。リュクルゴスはそのために自分の粗野な同時代人にたいして技巧的な狡知を用いた。つまり、彼らに自分が帰ってくるまでは国制を変えずに維持しておくことを誓わせたのち、旅立つやいなや自発的に自らに永久追放を宣告したのである。ソロンは教育のある厄介な人民を相手にしていた。彼は自分が不在のあいだ10年間有効な宣誓を人民に求め、戻ってきたときに体制を再び立て直し、国制に対する義務を100年間に引き伸ばした。ほとんどどこでも、法律の変更を提案することには、大きな難関が、まさに生命の危険がともなっていたのだ。

12. 哲人が君主政を望んだとき、彼らはその場合、混合的な統治形式(gemischte Regierungsform)のことを考えていた。それは、おおよそ昔から、とりわけ強力で戦争好きな国家においても最善の形式だと考えられていたのだった。彼らは常に用心深く、法律に基づいて支配する国王から恣意的な専制を区別していたということ、これについてはもう述べてきた。――リュクルゴスでさえ、真の王を導入しようとしていたようにみえる。エフォロイはのちに創設されたか、初期の頃からあったにしても、少なくともエフォロイによって王を制限するということは後になってはじめてなされたし、それはまったくリュクルゴスの意図に反していた。権力乱用の歴史は長く、全体を維持しておくために配備された身分(中間団体corps intermédiaire)が他の権力を弱めたり、自らに全権力を振り向けようとしさえしたのである!

***
最後に、ほんのいくつか最も重要な――そしてどんな国制にとっても教訓になるような――見解を付け加えようと思う。様々な統治や政治的事件の偉大なドラマを眺望したときに、ギリシア人はそうした見解に辿り着いたのであり――、それはわれわれにも歴史が今もなお声を大にして説諭してくれるところのものだ。

人民の習俗は、統治の様式(Art der Regierung)よりも、はるかに重要な意味を持っている。習俗が多様であるために、最善の国制でも無に帰することもあれば、最悪の国制が改善されることもある。

もし精神が欠陥のない国制に関する計画を構想することができたとしても、さらにより高度な理性によって、こうした計画は実行することはできない、と知らねばならない。――あるいは、それが今回だけたまさか実行可能だったとしても、それはすべての国民(Nation)にふさわしいものではきっとない、と。

問題は本来、国家行政(Staatsverwaltung)であって、統治形式(Regierungsform)ではない。国制は、最高の権力が一人の手に、あるいは数人の手に、あるいは人民の手にあるのだとしても、卓越したものでありえる。

劣悪な法律を持っていてもそれを遵守するのであれば、善き法律を持っていてそれを守らないよりも好ましい。

最も罰するに値する欺瞞というのは、それを実行する能力がないのに統治に対する要求を掲げ、人間を導こうとすることである。

*1:[以下ではStaatsverfassungもVerfassungも国制と訳した。[]は訳者によるもの。]

*2:これをもって少し前になされたベルリン月報の約束が満たされたことになる。1792年11月号、482頁。[「約束」は次の翻訳記事のコメントの中に見いだされる。この記事自体も非常に興味深い。William Thomson, Einzelne Gedanken eines Englanders uber die gegenwartigen Streitigkeiten in Betreff des Wesens und Endzwecks der burgerlichen Gesellschaft und der Staatsverfassung, übersetzt und Vorerinnerung von J. E. Biester, in Berlinische Monatsschrift Bd. 20, 1792, S. 479 - 490.]

*3:昔のある著述家によればこれらの論考の数は158だという。またある人によればそれは255だともいう。ここで資料から証拠となる箇所を引用するのは控えさせてもらう。また、私が一般的にすぐれた『若きアナカルシスの旅』[Barthélemy, Jean Jacques, Reise des jungen Anacharsis durch Griechenland: vierhundert Jahr vor der gewöhnlichen Zeitrechnung, übersetzt von Abbt Barthelemy, Berlin: Lagarde & Friedrich, 1789]に依拠していることも許していただけるだろう。この本には注意深く作られた索引があって、調べるのに非常に好都合である。[ここで言われているアリストテレスの著作は『政治学』ではなく、『国制誌(πολιτείαί)』を指すと考えられる。これはほぼ全編が散逸してしまい、今ではアリストテレス自身が書いたものとされる『アテナイ人の国制』しか明らかになってはいないが、アテナイ以外の国々についても書かれたものとして古代以来参照あるいは孫引きされてきたらしい。158とか255とかいう数字は、篇の数であり、今では概ね158篇ということが定説らしい。参照:村川堅太郎「解説」『アテナイ人の国制』岩波書店、1980年。]

*4:"The Dunciad", book 2, v. 286: Ah! why, ye Gods! should two and two make four? これに対する的を得たウィットに富む注釈によれば、確かに人間には世界が単に議論の対象としてしか与えられていないので、こうした物事の確固たる決まりに苦情をいうことも許される。

*5:[下記の10節を参照。元老院と訳すとあまりにローマ的な感じを受けるため。]

*6:[『キュロスの教育』という著作があり、ペルシア王キュロス2世(大キュロス)に仮託してクセノフォンが政治哲学的見解を述べている(らしい)]

*7:[以下、番号で示されているのは節の番号であり、ビースター自身による。

*8:[古代ギリシアの文脈では、Föderationを同盟と訳すのはふさわしいだろうが、同時代で連邦といえばアメリカのそれを想起させる。]

*9:2つの方法(Art)、あるいはむしろ堕落(Ausartung)は、確かに実際には同盟制度ではないし、少なくとも法的には禁止されているけれども、フランスにおいても見受けられる。地方の市町村庁(Munizipalität)が自分自身に対して独立・自立してふるまうようになるとすぐに、一つの地区は他の多くの支配者を僭称するようになる。例えば、マルセイユは隣接する県(Departement

*10:[フランスの文脈ではパリが他の地方都市に対して圧倒的に政治的な優越を得ていることに対して批判があったように(例えばパリ共和国という揶揄)、「連邦」と訳してもよいかもしれない。またMunizipalitätのフランス革命期の定訳を残念ながら知らず、次を参照した。羽貝正美「フランス革命と地方制度の形成――「地方」の克服と「県」の創出を中心に――」『年報政治学』(41), 1990, 61-79. https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/41/0/41_0_61/_article/-char/ja/]

*11:Contrat Social, liv. 3, ch. 15

*12:市民が闘争能力に優れていたとしても、驚くにはあたらない。というのも女性と子供は決して市民ではないからである。

*13:["Was soll ein gechlossenes Dorf thun, wenn alle Baurenhöfe vertheilt sind, obgleich noch wohl Hintersassen, Kolonisten und Anleger einzelner Vorwerke Platz finden?" この部分よくわかりません。]

*14:Berl. Monatsschr. 1792, Jul. S. 13

*15:Montesquieu, Esprit des loix, liv. 23, ch. 17.[モンテスキュー『法の精神』第23篇・17章のタイトルは「ギリシアとその住民の数とについて」。「東方のある国々では自然的原因に由来するこの[人民の増加という]結果を、ギリシアでは政体の性質が生み出した。ギリシア人は、それぞれが政府と法律とを持つ都市からなる偉大な国民であった。[...]狭小な国土と大なる幸運とを持って、公民の数は容易に増加し、それが公民の負担になった。だから彼らはたえず植民都市をこしらえた。彼らは、今日スイス人がしているように兵として身売りをした。子供の過大な増加を抑えうることはなんであれないがしろにされなかった。[/]彼らの時代には極めて独特な国制をもった共和国がいくつか存在した。従属民は公民に食料を供給することを義務づけられた。スパルタ人はヘイロテースによって、クレタ人はペリオイコイによって、テッサリア人はペネステスによって養われていた。奴隷が自由人に食糧を供給しうるためには、自由人は一定の数しかいてはならなかった。われわれは今日正規軍の数を制限しなければならないという。ところでスパルタは農民によって養われていた一個の軍隊であった。だからこの軍隊は制限しなければならなかった。そうしなかったら、社会であらゆる特権を持っていた自由人が何倍にも殖えて、耕作労働者は押しつぶされてしまったであろう。」(岩波文庫版邦訳『法の精神(中)』362-3頁。)]

*16:これについては、ほんの少し変更を加えて次のように言うことができるだろう。彼らは――「闘う、狂人か酔人のように/平等という貴婦人のために、売女のためにと同様に/真っ正直に彼ら全員が敢えて誓いをたてたのだ/誰一人として何のためにそうしたのかは知らなかったが」。機知に富む詩人が政治的熱狂[polotischer Fanatismus]についてのこのようなヒューディブラスを我々につくろうとするなら、であるが。政治的熱狂は宗教的熱狂と同様に、常に哄笑と恐怖の境界を超え、揺れ動くものである。[ヒューディブラス(Hudibras)とは、サミュエル・バトラーの作った1662年の風刺詩である。本来は平等(Equality)の部分はReligionとなっている。]

*17:ローマでも同じようなことが起きた。マリウスが群集に媚を売り、単独支配者(Alleinherrscher)になったのだ。カエサルは平民の後に続き、ポンペイウス、貴族、評議会、そして最後に共和国それ自体を制した。

*18:晩年のアナカルシス

*19:詳細については『若きアナカルシスの旅』3巻、397頁。[Nicolas Fréret 1688-1749はフランスの歴史家。『ソクラテスの判決の原因と状況(Observations sur les causes et sur les circonstances de la condamnation de Socrate)』(1738)という著作がある。]

*20:『人間と[市民の]権利の宣言(Déclaration des droits de l’homme.)』29条(1793年4月)(Articles décrété (im April 1793.) XXIX.) 。「すべての自由な政府において、人間は抑圧に抵抗する合法な手段を持つべきである。そしてこの手段が無力な場合には、反乱が最も神聖な義務である(Dans tout gouvernement libre, les hommes doivent avoir un moyen légal de resister à l‘oppression; et lorsque ce moyen est impuissant, l’insurrektion est le plus saint des devoirs.)。」 そうなれば苦しんでいる人自らが、自分が抑圧されているのかそれとも、法律にしたがってあるいは避けられない状況のために苦しんでいるのかを判断するということであり、また、手段は十分であるのか、それとも前者の神聖な義務に妥当する状況なのかを判断するということである。[これはおそらく4月に提出されたロベスピエール草案であろう。完成版が交付されたのは6月であり、29条では抵抗権については書かれていない。]

*21:[今ではこの言葉はassemblée primaireのドイツ語訳として定まっているようだ。ジロンド派の93年憲法草案(2月提出)では、第一次集会に市民が集まって直接選挙を行うと同時に、憲法草案や憲法改正の場合、国民公会の招集が提案された場合、立法部が全人民の賛同を得る必要がある場合など、共和国全体に関わることについて審議する、とある。次の抄訳を参照。http://www.servat.unibe.ch/verfg/fr/1793_constitution_projet-unterricht.pdf]

*22:[ここでSenatを元老院と訳してもよいがあまりにローマ的である。以下で語られるようにソロンが作ったとされるのは法案の予備審査にあたったと言われているβουλήという評議会なので、ここでは評議会と訳した。]

*23:共和国にも2院がありうるということは、北アメリカの例が十分に示している。Maf. Nr. 2[これが何を指しているかは不明]を見よ。