ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

メーザー「フランスの新しい憲法の基礎としての人間の権利について」

Justus Möser, Ueber das Recht der Menschheit, als den Grund der neuen Französischen Konstitution, in Berlinische Monatsschrift 15, 1790, 499-505.

メーザー先生は歴史的な根拠に基づく議論をする方なので、いかんせん単語が独特で難しいので、かなり不安な訳(やく)になっていますが…。

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さて、親愛なるRさん、人間の権利Recht der Menschheitがあろうがなかろうが、ヨーロッパに人間の権利にもとづいて設立された国家があろうとはこれまで知りませんでした。フランス人が、彼らの人間の権利の理論に則って、実りあるものや持続しうるものを実現するとすれば、彼らは世界で最初の国民Volkとなるでしょう。どんなところでも、どんな社会の結びつきにおいても、商業のためか共通の防衛のためか、人間のほかに、その目的に適った株式Aktie oder Wahre*1が根底にあり、それらは同胞Genosseになるためには人が占有しなければならないものです。ごく小さな村でさえ、大抵の場合、完全株主か半株主、余分の一株主であったのであり、その株式に応じて各人は共同の牧地や森林地を享受し、自分のものがみんなの改良のために役立てられるのです。もし株を持たない人がUngewahrterがそこに入ってきて「私は人間だ、だから一頭の家畜を共同の牧地に連れて行かせろ」と言ったとしましょう。責任者は彼に答えるでしょう。「君は馬鹿か。われわれの村では、われわれが心の底から与えようと思う以上のものしか人間は受け取らないのだ」。どんな町でも事態は同じです。何らかのヴァーレを持つ市民や所有者だけがそこで名誉を受ける資格があるのです。単なる人間bloßer Menschにはそこでパンを物乞いする権利さえ認められません。せいぜい彼らには契約にもとづいてそこに定住することが許されるだけです。株式を持つことなく神の国へ行くことや、貧しい罪人という欄で人間同士を精算することなどは、神学者に任せておくのです。
こういうふうに小さな組合Genossenschaftが形成されるのと同様に、国家全体も形成されます。ヨーロッパ人は耕作者Landbauerとして土地株式Landwahreあるいは各国家に割り当てられた農地(マンズスmansusと呼ばれます)の所有Eitenthumを自分たちの結合の基礎に置いています。こうしたマンズスの真の所有者だけが、国民(Nation)の構成員であり、同胞と得失を共有していたのでした。土地の防衛Naturalverteidigung[?]において敗れた他のすべての人間は、当時はこうした敗北を金銭によって賠償することはできなかったものですから、奴隷になるか、契約にもとづいて居住する人々となり、法律や国家の決定に投票する権利を与えられなかったのです。
長い間、これらの株式を持たない人間は、互いに結びつき大きな国家のなかに特殊な小さな国家を設立することを認められてきませんでした。こうした株式を持たない人間unverbürgter Menschの群れが一箇所に集まり、塀や塹壕を築き、つまり一つになって、株式を持つ同胞たちgewahrte Genossenに意志を見せつけるとすれば、危険だと思われたのです。あるいは、彼らが神や聖者の庇護のもとに自分たちの団体Korpsを形成し、力を合わせて自衛するということは危険だとされたのです。しかし、時間が立ったり、窮乏や必要に迫られ、機会を見計らって、とりわけKönigsschuss[?]のために、最終的にこうした小さな結社がStadtやBurg、Flecken、HobenやEchtenという名で成立したのです。もちろんこれらは食料商店Heringskompanieのように、自衛のために小株式を出しあい、規約をつくりましたが、長い間、国民の構成員ではなく、その決定に参与してきませんでした。彼らは単に契約にもとづいて国民が認めた権利を獲得しただけでした。最終的に、株式を持つ人々Gewahrteが多くの戦争に参加し疲弊したあとになって、株式を持たない人々の借用Borgen, und Bäten oder Beebenによってしか生計を立てられなかったため、形式的な援助を契約にもとづいてこの人々に要求し、そのために当然自分たちの同意を求め、そしてその代わりに特殊な身分Standの諸権利をこの持たざる人々に認めざるをえませんでした。国家株式会社Staatskompanieはこのようにして、貨幣株式Geldaktieを、これまで共同の防衛だけが引き受けられてきた旧来の土地株式へと変えたのでした。ただし貨幣株式を持っていたのは、国家の裕福な人間であり、新しく導入された財産税によって土地株式からよりも貨幣株式から多く取り立てられたのです。こうして身分の諸権利を与えられた人々は、もともと株式を持っていた人と釣り合いの取れた勢力を獲得したのでした。
貨幣株式は確かに、旧来の土地株式ほどは、規定されていません。我々の現在の体制において貨幣株式に投機することが不正であるとはいえないにせよ。しかし、それでも誰でも簡単にわかるのは、100分の一所有者が完全株主の諸権利を要求することはできないということであり、また10の株式の占有者が100分の一所有者よりも会社の指揮に対する優先権を持つということでしょう。誰でも分かるように、この場合人間であるということは無関係であり、貨幣株式に基づいた国家の結合においても、土地株式の場合とちょうど同じように破産する人間が多いに違いありません。土地株式にもとづいていた際には、おなじ100分の一所有者(の蝋貢納民Wachszinsige)は一ポンドの蝋で暮らしていけていましたし、彼らは共同出資しなくてもよく、しかし国民としての名誉には与れなかったのでした。
戯れかあるいはパレードのために、フランスでは公爵が自分の仕立屋とともに無給の国民親衛隊の名のもとに姿を表し、人間の権利というものを奇妙な外見のもとに示しています。しかし、公爵も仕立屋も共に無給で準備して敵と戦おうとするとしても、実際には、仕立屋には、公爵が自分の爵位のために犠牲にするのと同じだけの血を自分の店のために流せ、などとは要求できないでしょう。また伯爵は自分の爵位よりも仕立屋の店を信用するということもできないでしょう。しかし、人間の権利というものは、どんな隣人も同じように他の隣人のために身を賭せ、と要求しているのです。
人間の権利が刑法を混乱させないということがあるでしょうか。イスラエルの民は、自分たちの苦しみのほかに、ただ人間であるということを携えて荒野へ出て行き、そしてどこでも裸一貫のみで法律への服従を保証してきましたが、どんな重い犯罪に対しても同じように裸一貫で償わねばなりませんでした。人間にとってこうした刑法はどれだけ正義のものだったことでしょう。兵士にとっても同様です。彼らもまたすべてが裸一貫で償われるものなのです。しかし、こうした刑法は、土地株式によって国家株式会社の適法的な契約にもとづいてふさわしい安全を手に入れた人々にとっては、不正義にとどまります。かつてはこうした人々にとっては、株式の喪失が最も思い刑罰だったのです。こうして忌み嫌われた法律は、絞首台や刑車の処刑よりも全く厳しいものでした。これらの処刑は、いまだに犯罪者の数を減らしていないのですからね。株式の損失は、株主や妻、子供にとっての処罰だったのです。株式を失えば、奴隷になるより他に道はなかったのです。そして、どこかに庇護を見つけるまで、彼は訴えられた者の持つ権利を放棄したことになりました。他方でかれは決して身体刑を迫られることはなく、刑棒でさえ会社がそのために取り決めていた税金を払えば免除されたのでした。その税金というのは、おそらく全株式を償却するというものでした。株式を持っていたローマ市民でさえ鞭の刑を受けませんでしたし、のちになって名誉市民もまたその罰を免れたようです。というのも、使徒パウロは、ローマの都市の株式をローマ帝国の土地株式よりも少なく占有していたらしいのですが、これによって適法的な成果を収めたからです。
確かに、人民Volkというものを破産した多くの人々だと理解するならば、人民はそう簡単に、こうした高貴な刑法に遡るべきだとは認めないでしょう。かつて貨幣株式が土地株式よりも明白に確実なものではなく、消費税や人頭税が株式を持つ者と持たざる者をはなはだしく混同させてしまってからは、そうなのです。
しかし、それでもやはり深く感嘆すべきなのは、我々の粗野な先祖、いわゆる野蛮人Barbareが、こうした構想を発明し、かくも長い間幸せに暮らしてきたということです。ただしそれも、モーゼが移動するイスラエルの民に与えた法律を、貨幣株式と土地株式の混交に乗じて、キリスト教が先祖伝来の土地所有者に次第次第に押し付けるまでのことでした。しかし、立法者にとって、人間の権利にもとづいてあらゆる犯罪者をその株式の違いを考慮せず、肌にむち打ち、烙印を押し、拷問にかけ、見せしめにするということがないようにするために、強力な合図を送るということはそれほど必要なことでしょうか。
おそらく私はあなたにさらに別の機会に、抵当登記簿の助けを借りて、我々の先祖の構想にしたがっていれば、いかにして新しい株式が国民のなかに生みだされたのか、名誉と勤勉がいかに強く称揚されていたのかということを示すことになるでしょう。

*1:[普通はWare[Wahre]は商品のことを意味する単語だが、かつてはGewährつまり保有権のような意味があったらしい。DUDEN曰く、Gewährはmittelhochdeutsch gewer, althochdeutsch gaweri = Bürgschaft, zu gewährenとある。また、Zedlerの大辞典でもhttp://www.zedler-lexikon.de/index.html?c=blaettern&id=463993&bandnummer=52&seitenzahl=0448&supplement=0&dateiformat=1%27)]。