ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

カント『人倫の形而上学・第二部・徳論』「倫理学的原理論・第一部・自分自身に対する義務について」:序論

岩波全集版『人倫の形而上学』が絶版になって久しく、このカントの倫理学体系上の主著がなかなか手にはいらないのは悲しいことです。
『人倫の形而上学』の第二部は「徳論」で、その「倫理学的原理論」の第一部は「自分自身に対する義務」、第二部は「他人に対する徳の義務」として構成されています。
論文を書くなかで「自分自身に対する義務一般について」の「序論」を見る機会があったのですが、この箇所の岩波版翻訳(池尾恭一訳)が誤っているとまでは言わないけれども非常にミスリーディングだということに気づき、下に訳しました。§1-3、アカデミー版全集6巻417-8頁の範囲です。
自分自身に対する義務はPflicht gegen sich selbstなのですが、このgegenがどのようなことを意味しているのか、池尾訳ではつかみにくいところがあります。問題は、池尾訳では、S verbindet P gegen Qという義務の構造において、verbindet Pとgegen Qの区別が訳に反映されていない点です。つまり、SはPを拘束するが、それはPがQに対して何かをする(あるいはしない)ように拘束する、という意味が区別されていないように思います。義務の拘束性の源泉はSです。カントにおいて、Sは常に私(あるいは私を含めたすべての人)の理性です。自分自身に対する義務とは、それゆえ「私が理性を介して自分を拘束する」ということを意味するのではありません。これは義務一般に共通する原理です。むしろ「私が理性を介して、私自身にむけて何かをするよう(しないよう)、私自身を拘束する」ということとして解されなければなりません。カントにおいて「私(S)が理性を介して自分(P)を拘束する」というのが義務一般の原理ですが、以下の箇所ではさらに義務が向けられる対象Qが自分である場合について述べられています。S、P、Qは概念的に区別されなければなりません。第一節では、QがPを義務づけるという場合、PとQが同一の主体であれば、それは矛盾なのではないかという一般的な理解が示され、第二節・第三節でその矛盾が解消されます。特に、池尾訳が問題なのは、第二節・第三節です。

§1. 自分自身に対する義務の概念は(一見)矛盾を含んでいる

義務づける私[verpflichtendes Ich]が義務づけられる私[verpflichtetes Ich]と同一の意味に解されるなら、自分自身に対する義務とは自己矛盾する概念である。というのも義務の概念には受動的な強要という概念が含まれているからだ(私は拘束されている[ich werde verbunden])。しかし、私自身に対する義務に関して、私は自分を拘束するもの[verbindend]として、それゆえ能動的強要において、表象する(まさに同じ主体[Subject]である私は拘束する者[der Verbindende]である)。すると、自分自身に対する義務を言明する命題(私は自分自身を拘束すべきだ[ich soll mich selbst verbinden])は、拘束されていなければならないという拘束性[eine Verbindlichkeit verbunden zu sein](受動的責務[passive Obligation]ではあるが、同じ関係性の意味において能動的責務でもあることになるだろう)を含む、それゆえ矛盾を含むことになるだろう。この矛盾は次のようにしても説明できる。拘束する者(auctor obligationis)はいつでも拘束される者(subiectum obligationis)を拘束性(terminus obligationis)から解放することができる。それゆえ、(両者が同一の主体[Subject]であるなら)拘束する者は自らに課した義務[Pflicht, die er sich auferlegt]にまったく拘束されていないことになってしまう。これは矛盾である。

§2. それでも人間の自分自身に対する義務は存在する
池尾訳

その理由は、もしもこのような義務が存在しないとしたならば、およそ義務はどこにもなく、外的義務さえも存在しないことになろうからである。なぜなら、私が他人に対して義務を課せられていると認めることができるのは、私が同時に私自身に義務を課するかぎりにおいてだけだからである。というのは、それによって私に義務をかすると私が思うその法則は、あらゆる場合に私自身の実践理性から発するのであり、その実践理性によって私は強要されるが、同時に私は自分自身に関しては強要するものでもあるからである。

拙訳ではこうなります。

というのも、こうした義務が存在しないとすれば、そもそもいかなる義務もありえないし、外的な義務もありえなくなってしまうだろうからである。というのは、私が他者に対して自分が拘束されていると認識するのは、私が同時に自分自身を拘束するかぎりでしかないからである。なぜなら、法則によって私は自分が拘束されているのだとみなすのだが、その法則はいかなる場合も私自身の実践理性から生じており、実践理性を通して私は強要されており、同時に私は自分自身の側から見れば強要するものであるからである。

強調した部分の原語は、こうです。

Ich kann mich gegen Andere nicht für verbunden erkennen, als nur so fern ich zugleich mich selbst verbinde.

外的義務とは他者に対する義務(Pflicht gegen Andere)のことですが、この義務の拘束性の源泉は私の理性です。ここで言われているのは、私は理性を介して私を、他者に対して(gegen Andere)、つまり他者に向けて、何かをなすよう(あるいはなさないよう)拘束している、ということです。池尾訳では<Qに向けて・対して何かをなす(なさない)よう拘束される>ということと、<PはSによって拘束される>ということが、どちらも「義務を課せられている」という訳になってしまっています。


§3. この見かけ上のアンチノミーの解決

人間は、自分自身に対する義務の意識において、自らを二重の性質における義務の主体としてみなす。第一に、感性存在[Sinnenwesen]、すなわち(動物の種の一つに属している)人間としてである。しかし第二にまた、理性存在[Vernunftwesen](単に理性的存在者ではないのは、理性はその理論的能力について言えば身体を持つ生きた存在者の性質でもありうるからである)としてである。理性存在にはいかなる感官も到達できず、それはただ道徳実践的な関係性においてのみ認識されうるものである。道徳実践的な関係性において、理性が内的に立法する意志に与える影響を通じて自由という不可解な性質が明らかになる。
 さて、理性的な自然存在(homo phaenomenon)としての人間は、原因としての自らの理性を通じて、感性界における諸行為へと規定されうるが、ここではまだ拘束性の概念は考察されない。しかし、その人格性にしたがって見られたまったく同じ人間、つまり内的な自由を賦与された存在(homo noumenon)として思考された人間は、義務づけること[Verpflichtung]が可能な存在であり、詳しく言えば自分自身(人格における人間性)に対して[自分を]義務づけることができる存在だとみなされる。それゆえ、(二重の意味で見られた)人間は、自己矛盾に陥ることなく(なぜなら人間の概念は同じ意味で考えられていないのだから)、自らに対する義務を承認することができる。

強調した部分は、池尾訳ではこうです。

しかし、まさに同一の人間が、その人格性からすれば、すなわち内的自由を賦与された存在者(homo noumenon)として考えられると、義務づける能力を有した存在者であり、しかも自己自身(彼の人格における人間性)に対して義務を課することができる。

原文はこうです。

Eben derselbe aber seiner Persönlichkeit nach, d. i. als mit innerer Freiheit begabtes Wesen (homo noumenon) gedacht, ist ein der Verpflichtung fähiges Wesen und zwar gegen sich selbst (die Menschheit in seiner Person) betrachtet.

und zwar以下の部分、省略を補うなら、und zwar ein der Verpflichtung des Ichs gegen sich selbst fähiges Wese betrachtet、あるいは und zwar ein fähiges Wesen, sich gegen sich zu verpflichten, betrachtetとなるでしょう。そうでないと、いろんなつじつまが合わなくなります。 つまり、第三節で区別されているのは拘束性の源泉となるSとそれが拘束するPではなくて、PとPがそれに向けて何かをしたりしなかったりしなければならないところのQ、つまり義務づけられるPと義務づけるQです。

おそらく日本語では「対する」という言葉が曖昧なので、verbindet Pとgegen Qという二つの契機を区別するために、後者は「対する」ではなくて「向ける」というふうに訳した方がいいかもしれません。「自分自身に向けての義務」、「他者に向けての義務」としても、おかしくないですものね。