ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

アウグスト・ヴィルヘルム・レーベルク「理論の実践に対する関係について」

August Wilhelm Rehberg, Über das verhältnis der Theorie zur Praxis, in Berlinische Monatsschrift, Bd. 23, 1794, S. 114-143.

ググったらスタンフォード大学の哲学辞典に項目があってびっくりしたのですが、それもそのはずドイツ思想史の研究者、フレデリック・バイザーの執筆項目でした。レーベルクは18世紀末ドイツの保守主義者の一人と数えられる人物ですが、カント哲学の信奉者でもありました。詳しくは、辞典の項目を参照のこと。ここに訳した論文は1794年に『ベルリン月報』に発表されたもので、93年のカントの論文『理論と実践』に触発されて書かれたものだと考えられます。カントの『理論と実践』は三節構成になっており、それぞれ道徳法則・国法・世界市民法における理論と実践というテーマが扱われていますが、レーベルクにおいてもその節構成を踏まえたものになっています。カント自身が『理論と実践』を書いた動機としては、明示的には通俗哲学者クリスティアン・ヴォルフへの反論ということになっていますが、政治的な動機としてはフランス革命を見据え、国家・法・政治について理論的に捉え直す機会としたということもあるでしょう。カントに触発されて、同年にはバーク『フランス革命省察』の独訳者として有名なフリードリヒ・ゲンツが『理論と実践の関係についてのカント教授の議論への補足』という論文を、こちらも『ベルリン月報』に発表しています。カント、ゲンツ、バークのこれらの論文のやりとり(論争というにはカントがあまり反応したようには思われないのですが)は、ディーター・ヘンリッヒによってある書物にまとめられています。ゲンツの論考については千葉大学のレポジトリで訳が公開されています。また、ヘンリッヒのイントロダクションについても私訳が僕の知り合いのブログで公開されています。本書には、クリスティアン・ガルヴェの理論と実践に関する3つの論考も収められています。

1.
あらゆる理論の本質は、現実世界あるいは可能だと考えられる世界の諸対象を、ある面でまた若干の関係において表現しうる、諸概念を展開することにある。まさに明確な限定的効果を求めるなら、諸概念の科学的展開から引き出された規則を単純に適用することは、設定された目的を達成するのには十分である。[しかし他方]より複雑な状況、つまり全く様々な諸法則に従属する多様な現象から帰結が構成されるような状況(例えば機械的で化学的な作用から、あるいは動物的自然の変化みたく一層多くの作用から、構成される物理的な現象)は、同時により多くの諸理論から判断されねばならず、しかもその理論同士の関係は未だ発見されざる諸法則に従属しており、にもかかわらずより一般的な理論はその諸法則から導き出されなければならないし、しかもその理論は個々の法則を結びつけ、世界の対象と現象をあらゆる面から完全に包括するものとなるだろう。こうしたことをより高次の完全性をもって成し遂げ、それゆえその本性に到達するということが人間の認識能力そのものにとって可能かどうかということは、疑わしい。実際、事象そのもののなかにむしろ克服しえない障害がおかれているかのようなのである。というのも、あらゆるものを包括する最高の体系というものがあるなら、それは物自体Dinge selbstが自然において現象する際に従う諸法則以外に依拠することはできないだろうが、叡智界と感性界を結合するこうした法則は人間悟性にとっては、その本性上、永遠に秘密裏にとどまるだろうからだ*1
ここにこそ、訓練を通じて陶冶された実践的な観察者や芸術家たちが、最も完全に理論的に陶冶された悟性よりもなぜかわからないが優れているということの理由がありえる。したがって、理論は実践の場合にも同じというわけにはいかないことが多いという批判は、決して完全に退けられるわけではなく、理論そのものを害さずに、むしろただ理論が果たしうることにその思い上がりを限定するのに役立つだけだろう。
[ところが]人間がなすべきことを命じるような学問においてはまったく様子が異なる。道徳学の理論の妥当性に対するよくある批判というのは、その理論はこの世では決してちゃんと遵守されることはないというものだが、それはある誤解に基づいている。確かに、[実際に]なされることは、なされるべきであることと永遠に矛盾し続けるかもしれない。少なくとも粗野な人々は、完全にそれが遵守されてはいないという理由で、道徳の要求をあざ笑うかもしれない。[しかし]違反者の数が増えれば恥も少なくなろうが、かといって罪が消えるわけではない。人間本性の本質的な不完全性でさえ道徳理論の峻厳さを損じることはなく、この理論において法則が立てられ、あらゆる道徳的存在者に対してその本性ゆえに命令し、その結果、自分たちは少なくとも[その命令を]遵守すべく励むように義務付けられているのだと感じるのである。
しかし、最高で明白な道徳の根本法則から導き出される道徳理論の範囲と十全さをめぐっては、争いが生じてくる。そしてこの争いこそがもっとも重要なのだが、それは第一に虚偽に陥る危険にある学問にとって、第二にそれを学ぶ人の道徳と道徳的満足にとってである。この学問を学ぶ人は、道徳の最高の法則そのものを誤認するか、懐疑的な疑念に陥ってしまうという危険をおかすが、それは諸概念から得られた純粋な認識の原則が異質な領域に無条件に適用されるやいなや陥ってしまう矛盾を発見した場合である。
最高の道徳法則は経験にはいっさい依存しない。それは自存していて幸福との結びつきを一切欠いている。道徳はしたがって本質的に幸福に生きる技法Kunstとは異なっており、後者は人間本性の経験的な認識に基づくものだ。
これらはみな批判的な哲学の改革者Reformatorによって完全に証明されている。道徳が基づく真の根拠を彼が解き明かしたことは、学問的な哲学にとって測りがたい価値を持っている。彼の書物はさらに、純粋な道徳が持つ最高の原理を凌駕できないほど見事に仕上げてみせたことによって、その書物によって発見された諸根拠に基づく心情を広めることに、非凡なまでに多く貢献するに違いない。
しかし直接人間の行為に適用することが可能な原理から道徳学の体系が導き出されるとすれば、困難が生じてくる。それは妥当性に関するものではなく、この明証な原理の十全さと完全性に関するもので、それを私はここで取り上げようと思う。
道徳の最高の根本法則は、それが純粋な理性法則から生じなければならないということ、まさにそれゆえに形式的な法則以外のなにものでもない。この最高の法則は、カント氏が完全に表現しているように、「汝の意志の格率が常に普遍的な立法の原理として妥当できるように行為せよ」というものだが、それは人間の決断を道徳的に判断するための規則としては十分である。私が望みうることはすべて、誰にとっても同じ状況下でなすことが許されるかあるいは命じられるものだが、このことは私にとっても確実に許されるかあるいは命じられているものである。ただし、この判断の規則からは人間の行為は決して客体として規定されはしない。その規定のうえに何らかの個々の諸義務からなる一つの体系が打ち立てられうるというのにもかかわらずである。それぞれの規則が語るのはただ、理性は人間のあらゆる努力を制御しなければならないということだけであって、この努力の目的が何であるべきかということではない。後者の問いに関しては、純粋な理性法則自体から引き出されうるのは、次のことしかない。つまり、あらゆる目的が完全に一致すること、というものである。従って、またしても形式的なものが引き出されているのであり、それを通しても諸義務の対象に関してはいっこうに規定されない*2
これを果たすには、必ず最高の(形式的な)法則に何らかの経験的な認識が付け加えられねばならない。上述した無条件の実践的命法はこのために別の命法へと変換されなければならないだろう。それは「汝の人格においてと同様に他のすべての他者の人格においても、人間性Menschheitを単に手段としてのみならず常に同時に目的としても用いるように行為せよ」となる。
ただし「人間性」という表現は、ここではすべてがそれにかかっているのだが、曖昧である。
すべての人間が持つ理性と道徳は目的自体として尊重されなければならないということは、否定できない。ただしすべての人間のなかに存在するこの理性は、けっしてそれ自体が対象であるわけではない。理性はただ表象の形式としてのみ、それゆえ質料のなかに存在する。(これは身体ではなく、人間の表象の内容をなすものを意味しているが、それは思い起こすまでもないことだ。)人間性は意志と道徳の客体として、単なる理性や道徳以上の何かである。後者[理性・道徳]の原理は「理性的自然は目的自体として存在する」というものである。しかし、理性的自然は自立してあるわけではない。したがって理性があらゆる人間における自体的な目的として尊重されなければならないのであって、人間性がそうであるのではない。現実に存在しているあらゆる人間存在の中には、その存在のどの瞬間においても、理性がいわば混入していて、そのなかで人間存在は生きている。そして理性と分かちがたく結びついているものは、目的自体として扱われるよう要求することはできない。カント氏がこの法則を適用して見せている実例*3はたしかに適切である。なぜならその実例においてはあらゆる人間の理性は目的自体として扱われているからである。しかし同様に、理性的存在が目的自体として扱われるのではないが、にもかかわらず非難されるのではないような行為の実例というものも簡単に思いつくからである。
「人間は物件ではない」(と上記の[『基礎づけ』の]箇所では言われている)、「したがって、単に手段として用いることができるようなものではなく、行為する際には常に目的自体としてみなされなければならない。」
これは間違っている。理性だけが目的自体として神聖なのである。他方で人間が目的自体として神聖であるのはただ、自らの理性によって実際に支配されており、自分の力Kraftを適用することが固有の自立した所有物であり続け、この自己支配において理性(と道徳)を侵害しないかぎりのことである。その他の場合に自分の力を適用することは、ただ好ましい目的のための道具にすぎないのであり、他の自然と同様に、手段として理性的存在が持つ意図に従属している。したがって人間は同時に物件でもあるのであって、それは単に手段としても用いられうるものである。外的自由(他者の意志からの自立)はそのあとになって実践理性、すなわち人間の理性的意志に認められるのである。
しかし道徳的に善い決定の最高原理が道徳的な行為を客体的に規定することに変換されねばならないのだとすると、この原理が基づいている自由の概念には、感性界における自由の表出、すなわち感性的質料にはたらく自由な力の作用が付け加わらねければならない。叡智的存在者のこうした作用からア・プリオリに必然性が証明されるわけでもないし、いわんや可能性も把握されえない。(自由と道徳が認められる)叡智的存在者が感性的自然と結びついており、現象界ではあきらかに互いに姿を表し互いに影響しあうということ、このこと自体、経験的に認識される事実である。同様に質料は、そのなかで叡智的存在者が活動し互いに認識しあうのだが、創造されるものではなくて、存在者らにとって所与のものである。したがって人間の自由の外的作用は、ア・プリオリな原理のみに基づき道徳の根本法則の完全な適用が明証に証明されるような一つの体系に持ちきたらされることはできない。思うに、どんな義務であっても、道徳の最高法則を充足するために規則から逸脱しなければなくなってしまう諸事例は考案されえるだろう。ディドロのような人であれば、最も普遍的で神聖な義務の侵犯が英雄的な徳の崇高な表出として現われざるをえないような、そのような物語をでっち上げるだろう。こうした物語はしかし、多くの読者の道徳の感情を混乱させるのに役立つに過ぎないだろうけれども。実際、もっとよいのは明らかに、試みられはするがしかしいつも不可能に終わる理論の完成のために、道徳性の開化Kulturという共通のもの、必須のものを犠牲にするというほどの、困難な試練に駆り立てられる人の実践的な感情に、こうした[道徳的]決定を委ねるということだろう*4
しかし自らの良心に照らして行為を判断するための規則を含んでいる道徳において、個々の義務の最も厳密で普遍的な明証性はあまり問題にならない。というのも、自らの誤りを改善し修正しなければならない際の原理を各人はいつも持っているのであるから。そうだとしても、外的な権利という観点では全く別のことになる。外的権利はより多くの人によって共通して規定されなければならないし、判断されうるのであり、また何らかの形式に従ってしか生じえないのであるから、その根源と範囲はあらゆる点で最高度に重要である。

2.
完全な外的権利の体系は、人間性における理性が目的自体として扱われなければならないという原理から生じうるのであるが、しかしそれは以下の前提のもとでのみ導出されうるものである。つまり、理性的で自由な存在者それぞれにとって感性的な質料が付け加えられているのであり、その実質を通して互いに何を自分が望んでいるのかを明らかにし、それを伝え合うことができる、という前提である。こうした実質的な質料はすべての理性的な人格の根源的で無条件な所有権Eigentumでなければならない。したがって無条件的な所有権を(他の理性的存在の完全で排他的な所有物の要求を考慮して)取得する可能性は第一の課題であり、自然法全体が――それを現実世界に適用する際に――その解明に基づくものであって、それゆえにこの[所有権取得の]可能性が自然的な国法全体の根拠として見られることも正当である。こうしたア・プリオリな原理から証明される完全な所有権は、形而上的に完全な所有権を前提にしているだろう。しかしそのようなものは我々の世界にはどこにも存在しない。理性的存在者が感性との結びつきにおいて従属している物理法則は、理性的存在者の避けることのできない諸関係を発生させ、これによって完全に無条件な所有権の可能性は廃棄されるのである。
実例において完全に純粋な原理を説明するために、次のように仮定しよう。ある人が自分の生命を維持するためには自分の能力には不足のあるような食べ物しか見つけ出せないとする。例えば、手の届かない樹の果実であるとか、手を加えることのできない土地の果実であるとかである。他の人の助けがあれば、その果実を調達することができるが、他の人はそれを拒む。彼は他の人にそのことで自分に奉仕することを強制してよいだろうか。人間のもとでの外的な諸関係の最高の規則として立てられる法則は、私の目的のための道具として他の人を用いることを禁止する。しかし自然は人間たちにこれを(それ自体では適法的な)目的を達成するための唯一の手段として示している。その人の身体が自らの理性に対して、他の理性的存在者がその人の身体を自らの目的のために用いてはならないというような排他的な所有権として与えられているということ、これはどのようにして証明されるだろうか。自分が害を蒙らないのであれば自分の能力を他者のために用いることは確かに正当ではあるが、これは外的権利が問題になっている場合には妥当しない。
自分の身体についてさえそれが排他的な所有権としてア・プリオリに証明されうるわけではないのだとすれば、なおさら他者の身体、外的対象についてそれを証明することはできなくなる。
唯一完全な所有権は自由な選択意志そのものである。したがって、外的な物に対する完全な所有権の第一の起源は自発的な取り決めによってしか考えられないし、市民社会の基礎となる公法はその最初の主規定においてこうした同意を要求する。
確かに、道徳の根本法則から直接導き出されア・プリオリな諸原理に基づいた国法は、打ち立てられうる。しかしこれは、自らの自由を(上述したような)完全な所有権において表す存在にだけ適用可能なものである。これに対して、自由で理性的な活動が表出されれば自然の諸法則に従属することになる人間に適用するのであれば、ア・プリオリに立てられた市民的状態の諸原理は以下のようになる*5
第一に、人間としての社会のすべての成員の自由は、ただ人間における現実の自由に適用される、つまり人間の意志そのものに適用されるしかない。自由の権利は共同体の成員、つまりすべての人間に与えられるのではなく、ただ理性的存在者であるかぎりの人間にのみ与えられる。
誰も私をその人のやり方で幸福にするよう強制してはならない。ただしこれ[が妥当するの]は、それによって私の真の自由が毀損されるという場合である。別言すれば、誰も私に非道徳的なことをするよう強制してはならない。人間の自然的な能力の表出はすべて(道徳的能力と対照的に)市民社会の状態においては、立法権力の規制に従属しており、立法権力は、道徳的自由を制限することなく、自分の目的(幸福)を達成しようとするあらゆる国家市民の努力が最善の秩序Harmonieにおさまるような条件を考案しなければならない(ただしこの秩序は常に不完全にとどまるに違いない。というのも人間の努力はその本性上互いに妨害しあうからである)。
自由という表現が二重の意味を持つのと同様に(形而上学的な内的自由に属するものが誤って主体の外的な物理的作用と同じものとされているのだが)、自由概念に基づく権利の説明も二重の意味を持つ。[第一に]権利は、他のすべての人の自由を、それが私の自由と普遍的な法則にもとづいて両立しうるという条件へと制限するものだと言われる。この説明の意味するところが、自由の制限は個人の選択意志にではなく普遍的な法則に従属しなければならない、ということだけであるならば、これは全く正しいし、その適用可能性には疑いはない。したがって権利の平等がそこから帰結することはない。これに対して[第二に]、各人の自由が個別に制限されるのであれば、つねに他のすべての人の自由によって相互に制限が課されなければならない、ということが意味されているのであれば、そこからは、市民社会のどんな地位にも上昇することができるという各人の権利だけでなく、実際に平等な地位にある(フランスの新理論が要求するような真の政治的平等)という権利も帰結する。この意味では、この原則は間違っている。というのも上で示されたように、国家市民の自由の程度は本質的には様々な身分や関係性のなかで、自発的なwillkürlich[恣意的な]規定[自発的な取り決め]に従属しているからである。
市民社会の第2のア・プリオリな原理は臣民としての平等だが、したがってこれは、どのような臣民の権利も同様に神聖であり、それらはすべて法律的な規定と適法的な要求に服従しなければならない、という意味にすぎない。しかしこのことによって、関係性によって規定された諸権利の範囲と内容には大いに違いがあるということになる。この関係性は、我々の先祖が持っていた関係性とまったく必然的に結びついている。そこから出てくるのは、人間の市民的権利における生得的な違いであり、これに対しては、最大で最も明白な不正義に対するのと同じくらい多くの人が異議を唱えている。これらの人はただある種の憎むべき世襲的な違いを見ているに過ぎない(そこには多くの不正義が混じっている時もある)のだが、しかし彼らの原理が完全に普遍化されれば、夫婦生活ehelich Gesellschaftの正当性もまた、それが子供の状態に対して持つ帰結を見れば、廃棄されてしまうということを分かっていない。それはあの無思慮な主張がもつ、まったく否定しがたいがしかし実際に恐るべき帰結である。というのも結婚生活の諸権利の上に、現在の市民社会が自発的に設立されているからである。道徳性への素質が人間の本質そのものに備わっている以上、人間がどんな状態であっても道徳性がもちろん考えられうるに違いないということではない。道徳性の開化が考えられうるに違いないということなのである。
ア・プリオリに規定される市民的状態の第3の原理は、市民の自立である。カント氏によれば(ベルリン月報で言われている箇所では)自らの主人である人間の身分*6を要求するための必要条件を規定するのは困難であるという。しかし実際には、この世界ではどんな人間も自らの主人であることはない。自然状態では自由な人間はその活動と表現に関して自然の法則に依存している。人間は同様にこの自然の一部であり、物理法則(ここには情感という心理的法則もまた含まれる)に従属していて、それは物体の世界と同様である。人間の互いの諸関係も同様にこの法則に従属している。市民社会の状態では、この諸関係は(上述したような)自由の純粋法則に従属することはありえず、(明示的あるいは推定的な)取り決めと同意によって規制されている。このようにして、臣民を市民法のいずれかの階級に昇格させるのに十分だとみなされる、自立の程度も決定される。階級自体が所有権を自発的に取り決めるものであり、階級と所有権は非常に近しい。したがって単なる自然状態での獲得に基づく所有権は、市民社会において現在あるところの何かしらの法的な身分を根拠付けるには十分ではない。(何らかの技能の獲得は決してこうした所有権ではなく、最大限かつ訓練された才能もこの点で何らかの権利を持つのではない。職人は器用さによって自活することができるがゆえに市民であるのではなく、自発的な取り決めからでてくる親方の権利Meisterrechtを将来獲得すれば市民となるのである。)国家においては誰も自発的に取り決められた制限から例外とされることはない。文明化された国家では無制限の君主であっても条件に結び付けられている(たとえばデンマークの国王立法)。この条件が破られた場合に人民が抵抗することは正当かどうかという問いによって、人民の中にたやすく危険な動きがかきたてられてしまう。理論熱Theorienwutに罹ったフランスの第一回目の国民議会の無数の半狂人のもとで、彼らが国の体制Verfassungについて議論したときに、また人民もそうだが、最高の国家元首によって体制が侵害された場合に抵抗する権利があるかどうかについてあまりに多く関わりあっていたということは、とるに足らないどころではない。もっとも抽象的な理論においてはこの権利はまったく疑いを容れない。確かにこの理論によっては人民は権利について、それがどのように管理されるべきかについての一貫した判断を下せないにしても、しかし誰がそれを管理するかについては一貫した判断を下すのである。人民のこうした権利は支配者にとっては危険ではなく、むしろこの権利によってはじめて君主の威厳は確実のものとなるのである。というのも、この権利が人民から奪われるなら、人民はまた、運命に恵まれた簒奪者たちが反乱を起こした場合には、自分たちの正当な支配者の味方をすることさえ許されなくなってしまうからである。[カントによって]主張された無制限の服従(受動的服従passive obedience)の義務によって、国家元首の全権威が単なる暴力的な権力掌握に帰してしまう。
こうして、ア・プリオリな諸原理に基づく市民社会の体系全体は、ただその成員が完全に(形而上的に)自由な存在であり、各々が自らの作用範囲の創造者であるような世界にしか適用されることのできない理念であることになる。ルソーも述べているように(その原理はカント氏の理論と本質的に完全に一致し、ただ『社会契約論』の用語をふさわしい場所に書き入れてやりさえすればよい)、彼の体系はただ神々からなる共和国にのみふさわしく、神々はしかし市民的体制などはまったく必要としないのだ。反対に、確かに理性は存在するがしかし決して完全に純粋に理性的ではない存在者のもとで市民的体制が依拠する条件というのは、必然性にではなく有用なものdas Zuträglicheに対する判断に基づいており、その条件は唯一ア・プリオリな法則に従属しているには違いないが、それは、人間の根源的自由を否定し(ただし根源的自由には人間の能力の表出は含まれておらず、これは多様な仕方で制限されてはならないものである)人間の自立の一切を完全に破壊するような条件によっては、道徳性は廃棄されない、という法則である。
市民社会の原則の積極的な規定を形成することはただ人間の必要と振る舞いを観察し経験することからしか期待できない。そして諸原理からなる理論はこの場合、盲目の実践(それは単なる自然衝動や習慣的規則に従う)によってではなく、経験からなる理論によって打ち砕かれる*7
これに対して、ア・プリオリに証明できる自然法の諸規定からなる体系が人間の世界に適用されるなら、そこから生じるのは現在の市民的体制の完全な解体以外にはありえない。つまり、この体系によれば、理性の理想の諸規定にふさわしい体制だけが合法的である。こうしたものに当てはまる現存する体制は何一つとしてない。というのも、すべての体制は、その原理が[理性的自然法の体系によって]棄却されている世襲身分の権利を含んでいるからである。しかし現行の体制がそれほどまでに、正義の、つまり理性にかなった体制の第一要件と矛盾しているのなら、人類は根源的な道徳法則に対立する体制を無きものにする権能があるだけでなく、無きものにするよう義務付けられているということになる。国家体制の形態は、完全な平等が導入されるかぎり、どうでもよいことになる。しかし完全な平等をひいきすることで他の一切が犠牲にされるに違いない。こうして革命の理論は重農主義的体系から必然的に帰結するものとなる。
カント氏が革命家の狂信Fanatismusに対して現行の体制を守ろうとするために用いる表現は鋭く、多くの点で同意できる結論を導いている。しかしそれゆえ同様に、どれほどその諸前提が矛盾したものかについて注意を促しておかねばならないと感じる。
無制限の自由の原理が適用可能になるに違いないように見える、市民的・公的活動Veranstaltungenの唯一の対象が存在する。それは思弁的な思考に従事することであり、思弁的思考は確かに生活態度Lebenswandelに関係しているが、それでも生活態度は完全に思弁的思考の支配のもとにあるわけではないのである。生活態度の支配は、その処置をとりわけ直接純粋に実践的なものにするような諸原理を打ち立てようとするならば、人間にだけ任せられうるのであり、また任せられねばならないと考えなければならない。しかし、このように思弁的体系が多様な仕方で生活態度に関連しているにしても、元首は、この点においてもまた、純粋に理論的な原則からひどく逸脱した怜悧なklug処置を頼りにせざるをえない。諸法則からなる体系を理論構築することへと隠遁することは、抽象のなかに隠遁して人間を信仰の事柄に従事させることくらいしか引きあいに出せはしないが、それゆえにそんなことでは、生活に関して人類の幸福に必要なのことは何なのかを知りたいと望む人は満足しない。私自身も教会の体制について混じりけなしの政治的原則の理論をこのように論じようとしたことがあったが*8、この試みを通して一層はっきりと確信してしまった。このようなやり方では満足のいくようなものには達することはできず、純粋な理論は困難に至るまでしか案内してくれはせず、それを解決することはない、と。

3.
こうした困難が最大のものとなるのは、諸国民すべてが互いに道徳的に善く振る舞うということはどのようなことかを規定する場合である。正義はすでに、国家における内的関係性を規制するのには不十分であり、怜悧やよく理解された利益、好意にこの規定の一切に対する非常に多くの関与が認められるのだから、対象がいっそう大きく、それぞれの行為の直接的な帰結が非常に重要であり、諸事情があまりに見通し難いような場合には、このことは一層妥当するに違いない。厳格な正義は常に法則的な形式に依存するが、秩序が維持され、そのもとでのみ道徳的な人間が形成され、この世界の善人が満足することができるためには、諸国家の内部において、この法則的な形式のために物事の本質が犠牲にされることがしばしばなければならない、と言われる。諸国家からなる体系が正義の積極的な諸条件のもとに置かれればすぐに(この条件は、上で示したように、事の性質上、道徳の根源的法則から直接生じうることはなく、権力者の悟性によって付け加えられねばならないものだが)、つまりこうした体系が実際に現れるやいなや、こうした体系に参加する各国家に共通の最終目的のために、ちょうど私人の場合と同様に、物事の本質が合法的な形式によって犠牲にされてしまう、ということが考えられる。これに対して自然的状態においては、諸国民の名において行為する者が正義の法則を文字の上で侵害しながら、その精神には忠実を保っている、という場合が非常に頻繁に出てくるに違いない。
ここでは、この原則を最も興味深い政治的情勢や政治的事件に適用する場合のことを論じることはしない。というのも、ここではただ原理の規定を扱ったにすぎないからである。

*1:ライプニッツ・ヴォルフの形而上学には、この秘密を明かそうとする最も成功した試みが含まれている。しかしにもかかわらず、カントの純粋理性批判のなかで証明されたように、その試みは無首尾に終わった。思うに、私の著書『形而上学の宗教に対する関係についてÜber das Verhältnis der Metaphysik zur Religion (Berlin, 1787)』が示したのは、この問題を解く試みはライプニッツ・ヴォルフの試みの他には、そしてその後には可能ではない、ということだ。

*2:カント氏は『単なる理性の限界内での宗教』の序文の注(S. X)のなかで示している。形式的な道徳法則とその客体を結びつけるア・プリオリな総合的命題は可能である、と。しかしこのような可能性では、明証な道徳的学問の体系をそこに基礎づけるには不十分である。そのためには、必然性が出てこなくてはならない。

*3:『道徳の形而上学の基礎づけ』S. 67ff, [AA, 6:429. ここでは「自己と他者の人間性を手段としてのみならず目的として扱え」という定言命法が自殺の禁止(自己に対する完全義務)、偽りの約束の禁止(他者に対する完全義務)、自分の素質の積極的発展(自己に対する不完全義務)、他者の幸福への配慮(他者に対する不完全義務)という4つの事例に妥当するかが検討されている。

*4:道徳の法則は不快の感情によって人間を支配するが、この感情というのは法則の侵犯に必ず直接結びついたものである。カント氏によれば(『ベルリン月報』1793年9月号[これはカントの『理論と実践』を指す。]、こうした純粋に道徳的な不満足は人間の道徳の動機をなすことはありえず、それは有徳なものだけがこうした不満足をいだきうるからであるという。この不満足は徳の原因ではなくその帰結である。しかしこれでは人間の自然の素質と同様のことになってしまう。どんな力もまずはみずから素質のなかで発達してくるものである。その発展から生じその作用と結びついている感情は、次にその開化に役立てられる。こうしてまた(時系列に沿ってではなく、抽象における概念の位階に沿って)あらゆる人間は道徳的に善いものだと考えられなければならない。というのも、いかにして理性的存在者が非理性的に(非道徳的にというのは理性法則に反しているということである)行為することができるのかというのは、理解できないからである。行為の際に理性はそのことを意識しているのだから。非道徳的である可能性というのは、理性的存在者が自然と理解不能な仕方で結びついているということに由来している。その自然的な動機は感性的に制限された状態に関係する傾向性のうちにある。理性が感性的行為に何の影響も与えず、我々自身の行為について不活性な判断しか下さないような単なる社会生活からは、やはり道徳的存在者は出てこず、むしろ異形のものMonstrositätが出てくるのである。それは直接的な結果として神経システムがひどく摩滅し、自由な器質形成Organisationが損なわれてしまっている人間が、もっぱら悪習によって(あるいはある種の金属的薬物の常習によってもそうだが)至りかねないような状態なのである。 人間を現実に道徳的に行為する存在にする(これは機械以上のものである)あの[道徳の法則と感情の]結びつきは、快と不快の感覚Empfindungenを通して出てくるものであり、それは自らの理性あるいは非理性の純粋に精神的な意識と結びついたものである(しかしこの意識は主体の状態、つまり感性界における人格に関係している感覚によって全く純粋に考えられなければならない。またこの感覚には他者よりも善いという道徳的な誇りも属している)。したがって人間の道徳性に関する我々の判断において、我々が要求するのは、人間が自らが不道徳であるという意識によってまったくいかなる不快の感覚も引き起こされないでいるにも関わらず道徳的に行為するべきだということではなく、自らの不道徳を意識することが耐えがたい痛みを引き起こすべきだということである。同様に、我々が各人に要求するのは、人間本性の第一の素質において不完全な存在だと侮蔑される報いを受けた時に、美への刺激を感じるべきだということである。

*5:カントは市民的状態の原理を3点あげているが、それは第一に人間としての自由、第二に臣民としての平等、第三に市民としての自立である。レーベルクはこの3点に注釈を加えている。

*6:カントは投票権を持つ能動市民の要件として、自らの主人であること、つまり経済的自立を挙げている。

*7:根源的契約にかんする論争、つまりそれが理性に基づくのか悟性的選択意志に基づくのか、そしてそれが必然的な条件からなるのか偶然的条件からなるのか、ということは、はっきりと洞察されることは稀である。『ベルリン月報』1793年7月号のある記事の執筆者[Dietrich Hermann Hegewisch, Übersicht der verschiedenen Meinungen über die wahren Quellen des allgemeinen Staatsrechts, in Berlinische Monatsschrift, Bd. 22, 1793, S. 29-64]もこれを正しく洞察できなかったようだ。政治家の中の合理主義者が主張しているのは(記事の38頁)、合法的な国家の成立形態は国家市民の自発的な協定によって以外には考えられないということではなく、むしろまったく逆で、国家は自発的な協定からは(つまり恣意的な条件にもとづけば)決して合法的な仕方では成立しえず、この協定の諸条件が理性によって指定され、そうすれば必然的なものになる、ということである。つまり、常に理性的意志である国民の普遍的意志が基礎になければならない、ということではなく、普遍的意志はそれが理性的意志におそらくは大抵の場合最も近いものであるがゆえにその限りで基礎になければならず、こうした理性的な意志は(抽象的には)すべての国法の唯一の基礎である、ということである。ルソーの書物のタイトルからしてすでに、多くの人が誤解してきた。この作家は『社会契約論』という本のなかで、根源的契約は恣意的な諸条件に基づいてはならないということを示しているのではなく、市民社会が依拠する根源的な諸条件は理性そのものによって指定されている、ということを示している。

*8:[Rehberg, Fernere Untersuchungen über allgemeine Toleranz und Freiheit in Glaubenssachen, in Berlinische Monatsschrift, Bd. 13, 1789, 297-348]