ドイツ啓蒙資料集

主に18世紀後半のドイツ関係のもの、特に政治思想・社会思想を中心に。

トムソン「あるイングランド人による市民社会と国家体制の本質と最終目的に関する現在の紛争の考察」

「あるイングランド人による市民社会と国家体制の本質と最終目的に関する現在の紛争の考察」

一つ前の記事でビースターが言及していたのが、この記事です。William Thomsonという人物がSamuel Parrに送った書簡の紹介をドイツ語訳したものの翻訳です。ビースターは自然神学や、民主政擁護、君主政批判の気配がある箇所を訳していません(意図的なものかそうでないかは定かではないですが、前者の可能性が高いという気がします)。この論文は、形而上学に対して経験知(ないしは思慮)を重要視し、唐突な変化よりも徐々に生じる変化を擁護するものになっています。90年代イングランドの政治的思潮も気になるのですが、そこまでは手が及びません。

Thomson, William, (übers. und hrsg.) Johann Erich Biester, Einzelne Gedanken eines Engländers über die gegenwärtigen Streitigkeiten in Betreff des Wesens und Endzwecks der bürgerlichen Gesellschaft und der Staatsverfassung, in Berlinische Monatsschrift (20), Nov. 1792, S. 479-90.
編者による前書き
重要な事柄に対するわれわれ考えを豊かにするために多いに役立つのは、表題に挙げた題材について多くのことが話され、書かれるということである。また間違いなく全体として利益をもたらすに違いないのは、このことがドイツでも非常に頻繁におこなわれるということである。ただし、我々の国民[Landsleute]のなかの大抵の著述家にとっては好ましくない感じを覚えるだろう。彼らは政治的業務における経験もなければ、偉大な政治家が何を行い、偉大な政治学者(Staatslehrer)が何を考えたのかを知る由もない。したがってメーザー[Möser]も、こうした経験や知識に富み、そこから語ることのできるほとんど唯一の人であるのだが、間違いなく無能に過ぎるばかりの敵によってあれほど信じられないくらい誤解されるのである。――誰も経験についてはどうすることもできない。しかしなぜ、我が国の多くの著述家はその常日頃の性格に逆らってでも、歴史的知識[historisches Wissen]さえ、博識さえ、この分野に持ち込もうとしないのだろうか。むしろ私は問うてみたいのだが、いったいどうして自分にはこの分野で必要な知識が欠如していると知っていながら、あれほど大威張りでものを書けるのだろうか。彼らは、なにかこの分野には善意志が十分にあるとでも思っているのだろうか。

イングランド人はこれまで異論の余地なく最良の機会を得て、協働する政治家としてか参加する観衆としてか、政治的事柄に携わってきた。こうした優位は彼らの作品の中にもまったく顕著である。しかも、ここではバークとその論敵であるマッキントッシュの名を挙げるだけにしたいが、詳細な作品のみならず、ぞんざいに書かれた小論においてもそうなのだ。こうしたことによって小論であっても興味深くより良いうわべを保っているものである。

後者の種類のものとして、私はここにある手紙の一部を掲載する。それは大きな問題を深く追求したものではないけれど、多くの洗練された有益な思考を含んでいるものだ。バーミンガムの騒乱が大きな注目を集め、激烈な批判者や党派的な擁護者が現れたとき、バーミンガムの司祭でありアルダーマン・カーティスの兄弟であるチャールズ・カーティス[Charles Curtis]師がバークに反論する熱烈な民主主義的論考を出版し、それがバーミンガムのある州内に出回った。それに対して、パー博士[[Samuel] Parr]が補足として「ウォリックシア州で最近流通している印刷物の続編[A Sequel to the printed paper lately circulated in Warwickshire]」Dilley, 1792を書いた。この書物はさらに同じ年に増補されて2刷になった。パーはこのなかで、教養ある友人、ウィリアム・トムソン[William Thomson]博士の文章を挿入しており、それは上述した対象を扱ったものであった。このトムソン(法学博士)はワトソン[[Robert] Watson]のスペイン国王フィリップ3世の歴史第4部の最後の2巻を執筆したことで有名である。また彼はカニンガム[[Alexander] Cun[n]ingham]による革命からジョージ1世の統治までの歴史を、ラテン語から翻訳し、ヘースティングズの戦いやアジアの戦争についても執筆している。彼は決してフランス革命の擁護者ではないけれども、マッキントッシュ[Mackintosh]は彼に敬意を払い、論文のなかで尊敬をもって彼に二度触れている。私はヨーロピアン・マガジン[European Magazine]の1792年8月号(133頁以下)に載せられたパーの用いた書簡からトムソンの文章を知ったにすぎない*1。以下ではそこから抜粋する。

ベルリン月報は今後、こうした問題に関して古代の有名な人物や政治学者[Staatslehrer]が何を考えていたのかについて、いくつかの概要を発表することになるだろう。
B[iester].

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マッキントッシュ氏の本には、管見では国家改革に関する多くの著作と同様に、新興の塗装が大胆すぎるほどにほどこされている。しかし、あらゆる道徳的変革においては、遠く離れた予想もできない帰結こそが、直接の帰結よりも重大な意味を持つ。わずかな原因から生じた重要な帰結の一覧は、(偉大な謙遜という教訓が指導にも当てはまるのであれば)最も興味深く指導的な作品の一つをなしており、それは何らかの他の言語にも見受けられるものである。

建築家[Baumeister]は完璧に均整のとれた家を建てるが、それは彼が生命のない物事を取り扱うからである。つまり、木材や石材、その他の不活性で受動的な材料を取り扱っているのである。しかし政治家[Staatsmann]が扱わなければいけない人間の魂は、生命のある精神である。この材料は取り扱いに際して細心の注意を払わなければならない。これらを入れ替える場合には、慎重に一歩一歩処置して、何も動かさないようにしなければならない。道徳世界においては、小さな火花が暴力的な炎を燃え立たせることがよくあるが、それは理性によっても雄弁によっても消し去ることができない。自然を学ぶ機械工[Naturforschender Mechaniker]*2が、火薬を発射した力によって、大理石を堅固な岩からアーチや円柱やその他の建築物へと変形させるのは、いつだろうか。道徳家[Moralist]*3にとって、何百万人もの目覚めさせられた傾向性や対立する意図を、一つの調和のとれた永続的な政治システムに統一することは、より難しいということはほとんどないだろう*4。こうした傾向性や意図の正確な力[Punkt]*5が適切な正確さをもって測定されないなら、情念の火薬が、すぐれた国家機構[Staatsgebäude]を建築する代わりに、自然の見事な姿を火山灰で覆ってしまうに違いない。詩人たちはある種の建築物は、音楽という神的な力によるものだと考えたが、甘美な調子が持つ調和は完全にまた本質的に、反目しあう情念とは異なっている。調和は創造するが、反目は破壊する!*6――

ヒンドゥーの宗教では神の三位一体があり、それはブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌである。最初の神は創造の力を、2番目の神は消滅と破壊の力を、三番目の神は維持の力を表している。実際に、思慮深いことだが、神の一つに破壊の領域さえもあてがわれているというのだ! 個体として存在するものはすべて過ぎ去って消えていく。消滅は新たな形成[neue Bildung]に続く*7。[解体と再形成の]どちらも偉大なる計画に含まれており、暴力的であっても痛みともなうものであってもならない*8。我々の洞察力には限界があり、我々の衝動が激しいものであるために、我々は性急で無分別な行動に至ってしまう。自然の秩序[Ordnung der Natur]においては、すべては段階的で静かな進み行き[stufenmäßiger und ruhiger Gang]を経る。創造的な善は、新たな存在に生命を吹き込むのではなく、成人を柔しく、まるで熟した果実のように、その母の膝に痛みなく寝かせるのである*9。このように一本の樹はほぼ同じ時期に成長し、花を咲かせ、枯れていく。動物にしても同じである。それどころか、死したものでさえある一定の時間は自らの形を保っている*10。枯れた枝や幹、色の抜けた骨や骨格、倒れた塔は十分な時間を経ても依然として、それらのかつての姿をとどめている。というのも、徐々にゆっくりと[langsam und allmählich]、それどころか(我々の計画の性格上)ためらいがちに先延ばしにしながら、自然は外的な働きを進めていくからである。

道徳世界は自然界よりもより上位の領域を進んでいくが、それでも同じ関係に従っている*11。諸国家と帝国は成長し、完全な力を持ち、衰退する。そして身体と同様に形態を変えていくあいだに、立法者は最初の期間と同様、最後の期間のことを柔しく慎重に扱わなければならない*12

立法者の役割は、体制[Verfassung]を創造することではなく、ただそれを整えることであるようにみえる*13。様々な国家が自然全体に豊かに散在しているように、市民的・政治的社会[bürgerliche und politische Gesellschaft]*14の源泉にも同じことが言える。農民が植物の種をただ育てる[kultivieren]のであって、それを作るのではないのと同様に、政治家も新しい体制の本源[Stamina]や元素[Urstof]を、唐突で衝撃を与えるようなプロセス[plötzlicher und erschütternder Prozeß]によって、一度に創りだそうとする必要はない。政治家はただ古い体制を最大限に活用して、それを徐々に[nach und nach]最も賞賛される形態に適合させ(anpassen)なければならない。そうした形態は形而上学的な統治術[metaphysische Staatskunst]*15によっても案出されうるものである*16。この形態は立法者にとって、北極星が船乗りに役立つのと同様に、役立つものである。つまり、そこに到着することなしに、そこに向かうために役立つのである。

経験が示してきたように、立法者にとってほとんど不可能なのはア・プリオリに良き国制を設立しようとすることであり、それは庭師や農民にとって元素を混ぜ合わせてリンゴや楢の木の実を生産しようとするのが馬鹿げているのと同じである*17。穀種の性質はそれが草、低木、樹木へと成長していくなかで最もよく示されるが、それと同じように、統治形態[Regierungsform]の原理*18は、統治形態が作用、帰結、そして完全な展開において考察されたときに、最もよく知られうる*19。経験の導きなしに新しい体制のシステムを設立しようとすることがいかに虚しいかは、ロックによって書かれた有名なカロライナのための計画が示しているが、それは全く無用の長物であった。私に反対しようとして、現在の北アメリカの例を引き合いに出すことはできない。この国家[北米諸州]が栄えたということは、抽象[Abstrakzion]のおかげではなく、それがイングランドの定評ある体制にしたがって自らの体制の根本を調整したからである。それによってこの国家はどんな嵐のさなかにも持ちこたえることができた。同様に、カロライナもロックの計画を脇にどけたときにようやく栄え始めたのであり、その州はヴァージニアの体制と同じ体制を持ったのである*20

「すべての人間は生まれつき平等」であるということは虚構であるが、この虚構がまったく罪のないものであるのは、それがこれまで不平等なものでありながら栄えてきた体制を転覆させるためのてこに用いられない限りのことである。しかし、哲学的にはこう言われる。「全ての人間にとって法律は平等である」と。というのも法律は抽象的あるいは理想的なものであり、形而上学者や数学者が知っているように、完全な平等のみに妥当するようなものなのだからである。しかし人間やその他の自然物はただ個物においてのみ存在する。「すべての人間は実際には(in facto)*21平等ではないとしても、平等だと、あるいは少なくとも平等の権利を持っていると考えることは妥当である」と言われるかもしれない。しかしこの教義は道徳的にも形而上学的にも正しくない。健全な政治は長続きする妨害されない占有[Besitz]以外の権利を認識しない場合が多い。最もよく、最も正確な理由が探されなければならないのなら、では占有はどのように基礎づけられるだろうか。平等の権利と特権は、実際、すべての人間のもとにあるわけではない*22。しかし人間の幸福は、さもなければ人間はこれによって苦しんでいただろうが、こうした身分の違いによって損なわれるということもあまり多くない*23。しかし「人間はすべて平等でなければならない」と言われるのだとしても、あらゆる存在には様々な分類や系統があるというのに、どうして様々な身分が存在すべきではないのか、その理由は全く陳述されてはいない。自由と所有[Freiheit und Eigenthum]は国家[Nazion]ごとに異なっている。それらはひとつの国家においても様々な市民の階級のもとにある*24。そしてどうして、道徳あるいは形而上学にしたがえば、このようなことが起きてはならない、というのか*25

階級や関係の違いは人間本性から出てくるものであり、人間の幸福や偉大さに影響を与える。心を水流のように導こうとする人が、全国民の魂を清澄で静かな池に導こうとしても、それにもかかわらず永続する奇跡なしには静かさは保たれないだろう*26。情念によって、外国の攻撃によって、国内の不和によって、努力が生じてくる。そして英雄、立法者、裁判官として傑出した者が感謝と敬意を得ることになる。こうした敬意と感謝は子孫に対しても継続するだろう。相続によって、穏やかならぬ選挙の際にも利点が確保されるだろう。要言すれば、階級と差異は継続するだろう。素晴らしい線は山越え谷越え続き、それを通して外的な自然は我々をとても喜ばせる。それによってイングランドの庭園技術はあのように魅力的に交代していき、オランダの花壇のような無愛想な直線花壇を免れているのである。

したがって、人間本性のこうした性向を大切にし、それを導くようにして、他方でそれを根絶しようとはしないでおこう*27

国家の改革者のなかには政治的変革という仕事に非常に熱心な者がいて、かれらはその際に現在の世代のことを全く顧慮せず、ただ後世の幸福[Heil]のみをみようとする。確かに私は、誠実なアイルランド人の誰かに「いったい後世は私達のために何かしてくれたのか」と訪ねようとは思わない。しかしそれでも「われわれはほんの少ししか将来のことを見ないのだ」と言わなければならない。後世にはそれまでの善と悪があり、それらについて我々はほとんど知る由もない。なによりも、すぐ目の前に存在している事態について考えようではないか*28。一日の苦労は一日にて足る。――私は政治改革の敵ではない。神がそれを妨げているのだ! 政治改革はただ徐々に生じなければならない*29。そして驚くべきことは、堅実で視野の広い政治的思慮[politische Klugheit]の目であればどれほど早く自らの目的を達成するか、しかもそれが情勢や機会、情況に注意をはらいそれらを利用することによって、目的を達成するのかということなのである。

ロンドン(die City)の一部には多くの汚い小道や一角があるが、素晴らしい通りや広場もある*30。賢明な統治なら、いくつかの通りを潰し、家々を壊し、時折の火災を利用することによって、この首都に、何らかの建築の形をもたらすだろう。しかし、賢明な統治は決して火を放ったり、あらゆるものを取り壊すようなことはしないだろう。欠点と同時に多くの利点を破壊したりしてしまわないようにするためだ。これこそが健全な人間悟性が教えるところのものなのだと、考えなければならない*31*32

*1:[この記事は上述のパーの本に対する匿名の書評である。Google Booksで見ることもできる。]

*2:[原文ではnatural philosopher]

*3:[原文ではmoral philosopher]

*4:[原文では、Scarcely is it less difficult... to...なので、本来なら「難しくないということはない」と訳すべき]

*5:原文ではmomentum

*6:[雑誌の記事では、トムソンの自然神学についての解説が挿入されている。]

*7:[原文では"Dissolution precedes re-production."

*8:[原文ではこの後に以下の文があるが、訳されていない。"Such is the benign wisdom of Him with whom a thousand years are as one day, and one day as a thousand years. While certain grand objects are advancing to their just completion, other inferior objects, which serve as steps to those, are also going on to thiers."

*9:[原文ではこの後に以下の文がある。"The cave of Death is more terrible at the entrance than within. The last stage of gradual dissolution is not more painful than those imperveptible changes that went before it."]

*10:[原文ではこの後に以下の文がある。"Nature is flow, and, as it were, reluctant wholly to dissolve whatever she has formed."

*11:[トムソンの原文では、より自然神学的な語彙がここで使われている。例えばビースターが"in einem höheren Kreise"と訳しているところは原文では"in a higher order"、"nach den nehmlichen Verhältnissen"は原文では"in a similar ratio"]

*12:[ビースターは、意識してかせずにか、立法者の義務は"in imitation of Divine Wisdom"であるという部分を訳し落としている。]

*13:原文は"It does not seem to be the part of wise Statesmen to create, somuch as to improve, Governments."

*14:[原文はcivil and political societies]

*15:原文ではpolicy

*16:[ここでも原文にある自然神学的な要素は消されている。"Statesman, instead of forming, at once, the very stamina or essence of new Governments, by a process sudden and violent, should make the most of the old in the mean time, assimilate them, according to the general oeconomy of nature, by slow degrees, to the most approved forms that even metaphysical policy can devise."

*17:[この文章は原文が載っている雑誌編集者の要約によるものであり、トムソン自身の原文ではない。]

*18:[原文はprinciples of Government]

*19:[以下、段落の終わりまでトムソンの文章ではなく、雑誌編者の要約の翻訳。抽象的計画の例として原文ではロックの他に、エカチェリーナ2世が奴隷制を廃止し小作農の自由を導入したことが挙げられている。]

*20:[原文ではこの後編者の要約として、同段落中にロシアの奴隷制の廃止、植民地での奴隷貿易の廃止計画が政府転覆につながりかねなかったことが書かれている。

*21:[原文にはラテン語表記はない]

*22:[原文では、摂理(Providence)が平等の権利を与えていると言われるのであれば、実際にそうはなってはいない、という具合だが、摂理の文言は訳されていない。]

*23:[原文は「人間の幸福は人生における身分の格差という状況によってあまり影響されない」。]

*24:[原文は"There are different degrees of liberty and property enjoyed by different nations, and in the same nation, by different individuals."]

*25:[ビースターは以下をほとんど無理やりこの一文で要約しようとしているが、かなり強引である。"But there is no human state in which a certain degree of enjoyment is not found; none in which there is not room for the exercise of virtue; none that is entirely excluded from hope, the greatest balm of life, either in the lowest or the most exalted stations."]

*26:[この段落の以下の部分は、ビースターによる抄訳である。そして抄訳であるため、理解が難しい部分もある。]

*27:[この文章も次の段落の抄訳にしては省略が多い。原文は以下。the convulsions...以下は、「名誉の感覚」によって民主政がコントロール可能になること、「腐敗した君主政」の代わりに唯一堅固な道徳的義務である摂理との協働が見込めること、法への服従の精神が養われ、王の権威が知識・感情・作法によって和らげられ、統治の監視が次第に導入されることが述べられており、ビースターがこれらを省略した理由は考慮に値する。"By this happy constitution of nature (for that it is the constitution of nature all history bears witness), different stations are allotted to different people. A sense of honour animates the man of birth to honourable atchievements[sic]; the hope of distinction, the plebeian to distinguished actions: the convulsions incident to democracy are controuled[sic]; and the fabric of government, on which depends all that gives comfort, elegance, and difnity to life, is consolidated and strengthened. Instead, therefore, of wholly subverting Monarchy, it becomes us to co operate with the gracious will of Providence, the only solid basis of moral obligation -- it becomes us to cherish a spirit of reverence of the laws among the people, and to temperate the authority of Kings by knowledge, by sentiments, by manners, and the gradual introduction of counterchecks in the exercise of government."]

*28:[この後に次の文章が省略されている。"Let us encounter the labour and the danger of removing present and pressing calamities."]

*29:[原文にあるprogressiveという形容詞が省略されている。]

*30:[原文では"though it be not built according to any regular plan of archtecture."と続く。]

*31:COMMON SENSE. 有名なトマス・ペインへの当て擦りである。ペインはこのタイトルで本を書いた。[ヨーロピアン・マガジンでは、このトムソンの記事のすぐ後に'A Protest against T. Paine's "Rights of Man:" Addressed to the Members of a Book Society, in consequence of the Vote of their Committee for including the above Work in a List of new Publications resolved to be purchased for the Use of the Society' 2nd. ed., Longmanの書評が続く

*32:[元の記事はこれ以後も数段落続く。トムソンが唯一堅固な道徳的義務の基礎として、摂理の意志や自然の秩序といった自然神学的要素を持ちだしていることが紹介されている。またパーの本の2刷の変更点や執筆情況についても書かれている。]